Ⅲ 資本循環論の仕上げ

例によって、宮川さんの本文に入る前に、私の感想を入れておく。

もう一度、第1稿~第8稿までの執筆年代表を載せる。

第1稿

1864~65年執筆

第2稿

1868~70年執筆

第3稿

1868年執筆

第4稿

1868年執筆

第5稿

1876~80年執筆

第6稿

1876~80年執筆

第7稿

1876~80年執筆

第8稿

1877~81年執筆

執筆時期は3期に分かれている。

第1稿は第2部、第3部をふくみ、資本論第1部の刊行前にすでに書き終えている。

第1部の刊行後に、第2部、第3部の清書稿に取り掛かったものと思われる。

ところが2,3,4稿と修正を加えているうちに、部分的修正では追いつかないことに気づいた。

そこから10年間、資本論には手を加えていない。かなり悪戦苦闘したのであろう。あるいは第1インタナショナルの実践活動のほうが多忙であったのかもしれない。

とにかく、76年になってようやく執筆を再開した。それから5年後、マルクスは資本論を未完成のままこの世を去ることになる。

おそらく、本心では第1部でさえ改訂したかったに違いない。

ということで、宮川さんの本文に戻る。ここでは第5稿〜第7稿(1876 - 1880 年があつかわれる。

この章の見出しを「資本循環論の仕上げ」としたが、もともとの題は「資本循環論の仕上げと貨幣ヴェール観の脱却」となっている。

おそらく、貨幣ヴェール観からの脱却が不十分だったから、貨幣循環論に混乱があったということだろう。

そして古典派の資本-収入転化把握と決別したから、貨幣ヴェール観からの脱却が可能となった(ここは逆かもしれない)

その結果、正しい資本循環論が仕上げられた、と宮川さんは判断したから、このような表題を付けたのではないかと想像する。

まず本論の前に前フリがある。

1870年代後半に,マルクスは最終第8稿に先立ってあるいは並行しながら,第5稿〜第7稿に取り組んだ。

これは第2部第1篇 「資本循環論」の改訂稿に相当する。

ここはマルクス循環-再生産論形成史をみるうえで核心的論点であるから,立ち入ってみておく。

ということで、議論はここからいよいよ本題に入るようだ。思わずゾッとする。ここまででも十分ごちそうさまなのに…

1. 資本-収入転化関係の論点化

まず、読者を怖気づかせるさまざまな脅し文句が並ぶ。

資本-収入転化把握こそは,諸成分の「構成」または「分解」の連関の「経済学」表現にほかならない。

ドグマ命題は古典派の価値論である。

それは同時に,資本(・収入)の循環-再生産論,収入分配論でもある。

それは経済学上もっとも解けがたく輻輳した難問をかたちづくってきたのである。

2.マルクスの資本-収入転化論への取り組み

宮川さんの原文にはないが1節を起こす。

マルクスは早くからこの問題に取り組んできた。

① 1857-58年「経済学批判要綱」

「要綱」においては、それは流動資本の考察の文脈で、再生産の連関問題として登場する。

マルクスは賃金=「給養品」説をもとに、「可変資本と労賃との循環」として考察した。

ここでのマルクスはまさに俗流経済学者そのものである。

② 1861-63年 『剰余価値学説史』

「資本と収入との交換」の分析(ノートIX)において資本と労賃の相互関係についてコメントされている。

「労賃が同時に資本家の流通資本部分として現れる」問題は、蓄積とならぶ「なお解決すべき問題」として留意されている。

③ 資本論草稿の第1,第2稿

これについては前述のごとし

宮川さんはこう述懐している。

このように,マルクスは「経済学批判」研究の始めから晩年とくに最晩年の資本循環-再生産論の仕上げ局面にいたるまで,これらの諸命題につきまとわれそしてそれと格闘し続けた,といって過言でなかろう。

3.貨幣を資本にするもの

これまで、価値分解論と資本-収入転化論との関係が不明なまま進んできたが、どうやらここで解明されそうな雰囲気だ。

そのキーワードが「資本循環の重層的関係」ということらしい。また分からない言葉が出てきた。

第7稿では、まず貨幣資本循環の第1段階(G-W)が解明される。

商品流通の第一過程は、簡単に言えば貨幣資本の生産資本への転化である。

より一般的にいえば、貨幣形態から生産的形態への資本価値の転化である。

それは同時に,資本の自立的循環過程にいたる段階でもある。

貨幣機能を資本機能にするものは,資本の運動のなかでの貨幣機能の一定の役割である。

マルクス独特の持って回った言い方だが、貨幣が資本になるのは貨幣そのものが力を持っているからではない、ということだろうな。

貨幣は自動的に資本になることはできず、資本の運動のなかで他の諸因子と複合して資本になるということだろう。

私が考えるには、これはマルクスが第1部の冒頭で展開した使用価値と交換価値の関係と同じ論理(弁証法)だろうと思う。

厳密に言えば弁証法的論理の特殊形式としての「二項対立」の弁証法である。弁証法のより根本的な原理はエネルギーと存在(定在)との矛盾、時間軸の絶対性と相対性(発展性)との矛盾にある

商品は流通過程においては交換価値として現れ、生産・生活過程では使用価値として現れる。

それはまず使用価値(グッズ)として現れ、のちに交換価値の衣を身にまとう。

同じように貨幣は流通過程では裏返しの交換価値として現れ、生産・生活の場面では価値生み過程の触媒として現れる。

貨幣は商品と鏡像関係にあり、鏡の国の商品として捉えられる。

それはまず交換価値として現れ、ついで使用価値(価値増殖機能)を身にまとう。それは資本主義的社会関係の中で付与された「具体的有用性」である。

それは逆説的な裏返しの弁証法的関係なのだろう。

このような論理建てが、ある日マルクスの頭にひらめいたのではないだろうか。

ただその時のマルクスには、「そうだ、貨幣の二面性は商品の二面性と同じなんだ」というところまで得心できていない気もする。

4.貨幣を資本にするもの 宮川さんの説明

と私は読んだが、宮川さんは次のように説明する。

このように一般的商品流通と資本循環とのあいだの関連が,同一の過程をめぐる二つの形態の重層的な関係として概括された。

というから、さあ分からない。

「二つの形態の重層的な 関係」と端折ったが、宮川さんはここのところをもっと御大層な言い方で表現している。

異なった形態規定性の―並列的でもなく継起的でもない―同時重層的な( zugleich oder gleichzeitig ) 関係

これだけ並べられると、分かるものまで分からなくなってしまう。

ただ宮川さんの記述は有力な示唆を提供してくれてはいると思う。

このあと、宮川さんの記述はいっそう難解になる。私の評価基準として、記述が難解なところは筆者がよく理解していないところ、というのがある。

だいたいマルクスがそうだ。「要綱」を読んでいてわからないところは、だいたいマルクスが解答を求めようとして悪戦苦闘しているところだ。

と言いつつ、本文に戻ろう。

(こうして)資本の独自な自立的循環と,単純な規定での商品循環とのあいだの,区別と関連づけを見通す道が切り開かれた。

以下、いささか文学的な表現が連ねられる。

感性的な商品交換のもとで、それに担われつつ「同時に」資本独自の自立的な超感性的 循環(変態)を遂行する過程

流通手段(または商品の持ち手転換)を仲立ちとした資本と収入とのそれぞれ独自の循環諸規定が絡み合って進行するという相互依存関係…

これは,古典派の感性的な交換観 ではけっして 把捉されえなかったし,貨幣通流に偏った貨幣ヴェール観では一面的に歪めてみることしかできなかった 関係である。

こうした資本循環の理解の前進によって,資本-収入転化関係に感性的にまとわりついていた 資本循環と商品流通との諸環が解きほぐされ,それらの再構成が可能になる,つまりは資本-収入転化把握からの脱却に,見通しがつくのである。

まぁ、たしかにそういうことでしょうが、これで反対派が説得しうるかどうかは別の話でしょう。