論文の目次は下記のようになっている。

1 本稿の課題

2 賃金労働者の消費生活過程における価値法則の作用

(1)賃金変動と労働力商品供給構造の変化

(2)労働力商品への価値法則適用の実体的根拠

3 労働力商品の生産過程と労働力商品価値の実在性

(1)耐久消費財・休日の価値村象化問題

① 耐久消費財の価値村象化

② 休日の価値村象化問題

(1)サービス商品と社会的間接賃金

(2)妻子・高齢者の生活費の価値対象化

この内、「1.本稿の課題」 というのが最初の4ページを占め、問題意識が尽くされているので、そこを読んでみたい。

次に進むかどうかはそこを読んでの感想次第ということにしておく。



まったく段落がないので、こちらで小見出しを付けていく。

1.労働力は人間的諸能力の統合体

まず櫛田さんは「労働力は人間的諸能力の統合体」であると定義する。

そして、二つの特徴を上げる。

A) 人間の身体と不可分な存在形態を有する非有体物であって、物質的財貨とは異なる存在形態を有している。しかしながら、労働力は実在的な範疇である。

B) 労働力は十全なものとして生まれながらに人間に備わっているわけではなく、人間の消費活動をつうじて主体的につくりだされる。

前の記事に書いた私の感想からすると、この定義はもはやアウトである。労働力は人間的諸能力のほんの一部でしかない。

しかしながら、あまりこの問題に拘泥するつもりはない。マルクスは資本論執筆の時点では労働力についてはかなり割り切って考えている。

一言で言えば職務遂行能力(Arbeitskraft)である。決められた仕事を、決められた方法で、決められた時間内に遂行する能力である。資本家がもとめている商品はそれである。

2.消費生活過程は“労働力商品の生産過程”

労働力商品は消費生活過程というそれ自身の特殊な生産過程を有している。

賃金労働者の消費生活過程は“労働力商品の生産過程”である。その消費活動は“労働力商品の生産活動”として規定し得る。

この点についてはまったく同感である。

ただし、前段で「労働」の枠組みが人間的諸能力の発揮とイコールになっているので、消費活動が労働力の再生産とイコールになってしまう。

もしそうであれば、ここでいう労働力の再生産過程は、まさに「疎外された労働」とその再生産にすぎない。
人間は食うために働くのであるが、働くために食うのではない。キリストも言うではないか、「人はパンのみにて生きるにあらず」

3.余談: 消費生活過程の最大の生産物は「欲望」

櫛田さんは、労働と享受についての概念を未整理なまま展開するきらいがある。

これは日本のマルクス主義哲学に共通する傾向なのだが、労働の度外れの強調である。例えば芝田進午さんは教育の場には二つの労働があると指摘する。一つは教育労働であり、もう一つは「学習」労働である。そして教育の場とは教育労働と「学習労働」が貼り合わさったものだと主張する。

教育労働はともかくとして、学習することまで労働にふくめるのは明らかな間違いである。

マルクスは労働と享受を2つの人間的活動として対置している。社会的に生産と消費として現れる活動は、諸個人においては労働と享受として現象する。学習は享受する活動なのだ。

享受はただたんに消費するだけではなく、それを喜びとして受け取り、みずからの内的発展・成長の糧とするのである。

単純な享受の過程の中では、欲望は解決され消滅するかのように見えるが、繰り返す営みの中で欲望は多様化し、ゆたかに発展するのである。「豊かさ」とは何よりもまず欲望のゆたかさであり、「豊かな社会」とは欲望に満ち溢れグイグイと成長していく世界なのである。

購買行動を起点とする消費活動は社会的文化活動でもあります。“もの”として凝縮されたエネルギーがその具体的有用性を発揮し、それを生きとし生けるものとしての人間が受け取り、みずからを生物的制約から解放し、より人間的に文化的に発展していくこと、それこそが消費活動です。(2017年02月19日 カール・ポラニー年表の増補 ついでに一言

これらのことは「経済学批判」に展開されている。「経済学批判」(要綱)は「資本論」の準備稿として軽視される傾向にあるが、経済学の原論的枠組みを確定した重要な文章だ。

まだいいたいことはあるが、このくらいにしておく。