最初に地図を転載します。関ケ原町歴史民俗資料館からのものです。
jinsinnnoran


「飛鳥の扉」さんのページから多くを引用させていただきました。
日付は陰暦表記(のようです)

671年

11月23日 天智、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せる。

11月末? 大海人皇子(以後天武で統一)、大友皇子を皇太子として推挙、天智はこれを受諾。天武は皇太子を辞し出家。吉野に下る。

671年12月7日 天智、近江宮の近隣山科において崩御。大友皇子が跡を継ぐ。このとき天智は46歳、大友皇子は24歳。

672年

5月 天武、「大友が天智の陵墓建設を口実に美濃・尾張の農民を集め武装させている」との情報を入手。さらに吉野攻撃の動きも察知。

このあと天武は反乱を決意。高市皇子,大津皇子の都からの脱出を促す。東国に挙兵を呼びかける。

6月

6月22日 天武、美濃へ3人の使者を送り、①安八磨郡(あはちまのこおり、大垣近郊)の兵を徴発すること、②「不破道」を閉塞することを命じる。3人の使者は、村国男依(むらくにのおより)・身毛君広(むげつのきみひろ)・和珥部臣君手)(わにべのおみきみて)

6月24日 深夜、20人ほどの従者と女官とともに吉野を脱出。

6月24日 天武軍、伊賀国名張に入り隠駅家を焼き兵を募る。名張郡司は大友の出兵命令を拒否するが、天武軍には加わらず。

6月24日 天武、伊賀に進む。ここで阿拝郡司(あえ 現在の伊賀市北部)が兵約500で戦列に加わる。

6月25日 天武の長男、高市皇子が近江脱出に成功し、積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で合流。加太(かぶと)越えで伊勢の関に入る。

6月25日 伊勢国司の三宅連石床(みやけのむらじいしとこ)が天武軍に参加。500 の兵をもって山道を防ぎ、敵の追撃に備える。高市はそのまま美濃軍の待つ不破に向かう。

6月26日 天武軍、朝明の郡家を経て桑名(吉野より140キロ)に着く。天武は桑名に本営を構えるが、高市はそのまま美濃軍の待つ不破に向かう。

6月26日 飛鳥古京の高坂王が天武の謀反を大津京に伝える。朝廷は大混乱に陥る。

6月26日 安八磨郡の多品治(おおのほむじ 太安万侶の父)3千が挙兵。不破の関を封鎖。通過を図った大友軍部隊が美濃軍に拘束される。

安八磨郡は大海人皇子の生計を支えるために設定された封戸であった。
多品治(おおのほむじ)は太安万侶の父にあたる。当時は安八磨郡で封戸を管理する湯沐令であった。


6月26日 大友軍、全国に動員令を発す。東国への使者は美濃軍に妨げれ動けず。筑紫は九州防衛を口実に命令を拒否。

6月27日 尾張の国司小子部連さひち(ちいさこべのむらじ)が挙兵。2万の兵を率い不破に結集。東海道、東山道の支配権獲得に成功。
小子部連は「御陵造営」の名目で朝廷から動員されたのであろう。旧暦6月下旬といえば田植えを終え農家は多少暇になる。それが不破の関で足止めを喰らい、天武側に寝返ったものと思われる。
それにしても美濃の3千に比べ尾張2万は誇大である。戦後の処遇を見てもさほどの働きはしていないと思われる。天武側からすれば中立化できただけでも御の字であったろう。

6月27日 天武、家族を桑名において不破に向かう。野上に行宮(本営)が置かれ、ワザミガハラに前線本部が置かれる。

東国からの関門である不破の関の美濃側(安八磨郡)は天武の所領であった。おそらく天武はこの地理的条件にすべての戦略をかけたと思われる。


6月30日 天武軍は兵数万を確保。伊賀→大和方面軍が出発。軍長は多品治、将軍は紀阿閉麻呂(あへまろ)、三輪子首、置始菟(おきそめのうさぎ)ら。

7月

7月1日 玉倉部(たまくらべ-不破郡関ヶ原町玉)で最初の戦闘。大友側が奇襲を仕掛けたが撃退される。

7月2日 3~4万人からなる天武軍本隊が近江に向け進軍開始。指揮は高市皇子がとる。

7月2日 大伴吹負(ふけい)が倭京(飛鳥)で挙兵。乃楽山(ならやま 奈良市北部)まで進出し陣を構える。

7月2日 朝廷軍が犬上川に進出。不破攻撃を目指す。しかし戦闘をめぐり山部王、蘇我臣果安、巨勢臣比等ら将軍連が内紛。

7月4日? 大和進攻軍の一部が大和・伊勢ルート確保のため伊賀に残留することとなる。多品治が3千の兵とともに萩野(たらの)に駐屯。また伊賀と近江を結ぶ倉歴(くらふ)道の防衛には田中足麻呂があたる。

7月4日 吹負軍の坂本財の部隊が生駒山系の高安城(たかやすのき)を確保。

7月4日 坂本財の部隊が大阪側に進出するが、壹伎史韓国(いきのふひとからくに)の率いる朝廷軍に敗れ飛鳥に撤退。

7月4日 大伴吹負軍、乃楽山(ならやま 奈良市北部)で大野君果安(はたやす)の率いる朝廷軍と激突。惨敗し四散。朝廷軍は一気に飛鳥まで進出する。

7月4日 大伴吹負は落ち延びた先の宇陀で紀阿閉麻呂軍の先鋒、置始菟の部隊1千人と合流。

7月5日 大伴吹負軍、二上山のふもとの当麻(たぎま)で壹伎史韓国の朝廷軍と対戦。2日間の戦闘の上勝利。韓国は軍を離れて逃亡。

7月5日 倉歴の戦い。大友軍の田辺小隅が近江から伊賀への攻勢をかける。夜襲にあった足麻呂部隊は敗走。

7月6日 天武軍を追走した田邊小隅の朝廷軍、「たらの」で多臣品治軍3千人の迎撃を受け敗退。

7月7日 箸墓(はしはか)の戦い。大野君果安の朝廷軍と大伴吹負・置始菟連合軍による最終決戦。朝廷軍は敗走し、大和地方の闘いは終了。

7月8日 村国男依(むらくにのおより)らが率いる天武軍の本隊、息長の横河(米原市内)で朝廷軍を撃破。以後進撃を続ける。

7月9日 村国軍、鳥籠山(とこのやま 彦根)の戦いで勝利。

7月13日 天武軍本隊、安河(現野洲川)の戦いで勝利。

7月17日 天武軍本隊、栗太(くるもと 栗東町)の戦いで勝利。このあと最終決戦に備える。

7月22日 天武軍の西岸部隊、朝廷軍最後の防壁となった三尾城(高島町)を陥落。

7月22日 瀬田橋の戦い。近江朝廷軍が大敗し壊滅。

7月22日 大伴吹負軍、奈良から山を越え大阪へ進出。難波を制圧する。

7月23日 長等山へ敗走した大友皇子は首を吊って自決し、乱は収束。

7月24日 大友の首級が不破(野上)の天武のもとにもたらされる。

8月

8月25日 近江の重臣のうち右大臣中臣金(なかとみのかね)ら8名が死罪となる。

9月8日 天武は不破を出発し飛鳥に向かう。

673年

2月 大海人皇子、飛鳥浄御原宮で即位する。天武天皇から「大王」を「天皇」と呼ぶようになる。皇親(こうしん)政治が行われ、「大君は神にしませば」と神格化が行われる。