以前にもケルト人の歴史を勉強したが、あまりにも資料が少なく“ポジティブな全体像”を描き出すことはできなかった。

多くの資料は、ギリシャ人に逐われローマ帝国に逐われ、最後はノルマン人に占領され、ブリテン諸島の片隅に逼塞する民としか描かれず、他者にとっての歴史でしかなかった。

今回田中美保さんの論文「アイルランド人の起源をめぐる諸研究と“ケルト”問題」を発見し、その書き出しに大いに期待しノートを作成する。

1.「ケルト人」は創造された人種である

田中さんの問題意識は私にとっては鮮烈であった。

「ケルト」とは実は現代の問題でもある.

アイルランド, スコットランド,ウェールズ,コーンウォール,ブルター ニュなどは,本来,非英語圏・非フランス語圏であり,イ ングランドないしブリテンやフランスといった大国に支 配されてきた歴史をもつ.
当然,彼ら固有の文化も言語も 否定されてきた.それゆえ,言語や文化の復興・振興の名 のもとにこれらの地域が集い,その際,「ケルト」という 看板が付けられるという事情もある。

このような「ケルト」神話は,近代に,各地域のナショナリズムの高揚などの影響を受けて創造されたものである.

しかし,その「ケルト」観が,歴史的事実として誤用されてきたのである.

…いまだに商業ベースでは「ケルト」という言葉が踊っている.経済効果があるからか,「ケルト」神話はなかなか消えないのである.

…本稿では,とくに分子遺伝学者たちの研究に注目しつつ,アイルランド人の起源について考えていきたい.

ということで、「そもそもケルト人という言い方が間違いである」と断言している。

2.分子遺伝学者たちの研究

(1) ブライアン・サイクスの研究

サイクスの研究は,①アイルランド人、②スコットランド人とピクト人、③ウェールズ人、④イングランド人とサクソン人・デーン人・ヴァイキング・ノルマン人に分けて,それぞれの歴史やDNAについて論じている.

アイルランドの男性の圧倒的多数は「大西洋型ハプロタイプ」と呼ばれるY染色体を持っている。

「大西洋型ハプロタイプ」の比率は、アイルランドで80~95%、スコットランドが72.9%,ウェールズが83.2%,イングランドでさえ64%を占める。

さらにスペインのバスク地方やガリシア地方でも見られる。

サイクスは,ミトコンドリアDNAなども合わせて検討し、次のような結論を出している.

中央ヨーロッパからアイルランドやブリテン諸島への大規模な移住の証拠は何もない。ゲノムのレベルでは,アイルラ ンド人は中央ヨーロッパの人々との特別に近い類似性は ない。

いわゆる「島のケルト人」と「大陸のケルト人」とは遺伝学的に見て無関係である。

これは従来のケルト由来説の否定である。
それまでは、中央ヨーロッパの いわゆる「ケルト人」の中心地から鉄器時代に大量の移住 があったとされていた。

「大西洋型ハプロタイプ」の人々の大部分は,農耕が始まった頃にイベリア半島から移住した。

このとき、ブリテン諸島にはヨーロッパ大陸から来ていた中石器時代(約1万1500年前~約6000年前)の人たちが先住していた。
(2)その他の研究

重複する部分や曖昧な論争部分を避けて、付加的事実をあげておく。

「大西洋型ハプロタイプ」の人々は、新石器時代(約6000年前~約4000年前)にイベリア半島北部から大西洋側に沿ってブリテンとア イルランドに入植した。(スティーヴン・オッペンハイマー)

つまり、「ケルト人」を鉄器時代に中央ヨーロッパから渡来した人衆と定義するならば、そのような「ケルト人」は実際には存在しなかったということになる。

したがって、ブリテン諸島人の骨格をなす「大西洋型ハプロタイプ」の人々は、「ケルト人」ではない、ということになる。


ただ、その上で「大西洋型ハプロタイプ」人を「ケルト人」と称することにしようという人(例えばサックス)もいる。

3.アイルランド人研究者の発言

(3) P・マロリー『アイルランド人の起源』2013年

アイルランド人自身による研究の代表としてマロリーを上げる。

マロリーによれば、アイルランド島が今日の形や大きさになったのは,1万2 千年前から1万年前で非常に遅い。アイル ランドはユーラシアで最も人の定住が遅かった地の一つ である。

ア イルランドの多くの起源がブリテンにある。最初の入植者はスコットランド,マン島,ウェ ールズなどであろう。

11世紀後半にアイルランドで編纂された 起 源 伝説 『ア イル ラン ド来 寇の 書』はアイルランド人自身による起源伝説である.

物語では、最後にアイルランドに来寇したとさ れるのが,「スペインのミール(Míl Espáinne)」である.

多くの研究者がスペイン由来説の傍証としてこの物語を上げるが、肝心のマロリーは、中世アイルランド の学者たちによって,古典研究にもとづいて創造されたも のであり,決して「記憶」によるものではないと主張している。

同じように分子遺伝学的所見に対しても、「未だ不確実なもの」として批判的なスタンスを取っている。