山田規畝子「壊れた脳 生存する知」を読む
と題したがどこまで続くか分からない。本を読むのは簡単だが、しかし忘れるのはもっと簡単だ。味わい尽くすというのはとても困難なことだ。

とにかく始めよう。

この女医さんはチャラチャラした人ではない。整形外科医として研修を積み、親の跡を継ぎ、民間病院の若手院長として経営にも携わった人だ。

この本は、そういう人が30歳そこそこで脳出血となり、悪戦苦闘しながら新たな道を探していくという、一種の冒険ファンタジーだ。

その中で、自分と自分の症状を見つめ正確に描き出していく病状レポート・症例報告でもある。

私としてはとくに、三度目の発作すなわち非利き腕側の頭頂葉出血が、ゲルストマン徴候との関連で非常に興味深かった。これに比べると4度目の発作はあまりにも被害甚大で、脳CT画像を見ると思わず息を呑んでしまう。

ここまでなると巣症状(欠落症状)も、高次脳機能障害もへったくれもないので、むしろ残存機能をどう鍛え上げていくか、生活にどうハビリテートしていくかが主要な問題となる。そして山田さんは見事にそれを達成していくのだ。ただしそれは別の興味(というより感動)の対象だ。

1. 時計(アナログ)が読めないということ

この本の書き出しは、アナログ時計の読み間違いから始まる。

症状は大変具体的だ。午前4時を午前8時と読み間違いしてしまうことだ。

左右失認だ。情景は全て見えている。時計の読み方もわかっている。右と左も基本的には分かっている。しかしパッと見たときの左右の判断がつかない状態である。

物事を理解するには最初は大脳をフル回転させて対象を認識し、記憶装置にしまい込む。最初の2,3度はそうやって理解するのだが、繰り返すうちに思考・記憶回路のかなりの部分がマクロ化され、Batch File として別の作業用記憶装置に記載される。この作業用記憶装置は、事の性格上、感覚処理中枢の近くにあるはずだ。

と、ここまでは以前のおさらい。ただしその時は視覚情報の最終処理はすべて利き腕側脳半球で行われると思っていた。現に彼女は何の支障もなく時計を眺め、時計として理解している。しかし左右性については「頭では分かっているのに」とっさに判断できないのである。

つまり視認機能の基本はすべて利き腕側でやるにしても、左右差の認識だけは本質的に非利き腕側の視認機能が必要なのだ。もちろん利き腕側がやられても同じ結果にはなるのだが、その時は視認機能そのものに重大な支障が出てくるので、それにマスクされてしまうのであろう。

この左右性というのは意外に重要なので、多少大げさに言えば物事の意味性にも関わることがある。アナログ時計は右左が「似ているけれど違うんだ」というところに意味がある。差異性が認識できなければただの壁飾りだ。
2.時計は文明の凶器

考えてみれば、時計というのはとても不親切な機械だ。

針は2本あるのに(秒針を入れれば3本、目覚ましの針を入れれば4本)、長針についての表示はない。ひどいものは数字すらなく、頂点に目盛りが一つあるだけというものすらある。ただそのほうが厚労省の論理だと「公平」ということになるかもしれない。もし「親切な時計」と言うものを作るとすれば、長針用の文字盤はもう一つ作って、1,2,3…のかわりに5,10,15…と書くべきだろう。子どもに時計を教えるにはそのほうが良いかもしれない。

子どもが時計を覚えるためには、まず時計のいくつかの約束事を憶えなければならない。しかもこれらの約束事は非論理的で、したがって暴力的である。したがって子どもに非合理的な屈従をもとめる。「なぜ?秒と分だけが60進法なのだ」、「なぜ?時計には12までしか数字がないのだ」、「なぜ?1日は60時間ではなくて24時間なのだ」

「なぜもへったくれもない。昔からそうなっているのだ」
4.左右視と立体視
話を戻す。
眼がどうして二つあるかというと、それは立体視のためだ。わずかな視覚野の差異を利用して立体視できるように頭のなかで計算しているのだ。
これはアナログ画像からはできない。情報量が多すぎるからだ。そこで網膜に映された信号を後頭葉第1野でデジタル化する。それを第2野で圧縮した上で第3野で立体化する。この立体化情報は以後利き腕側の脳で処理されるので、非利き腕側の第三野以降は遊んでいることになる。
画像そのものはそれで終わるが、画像の意味というものは画像とは別に残る。なぜなら視認に基づいて何かの行動を起こす場合にはそれがもう一度必要になるからだ。
この辺は曖昧な形でしかいえないが、事物の意味論的な認識には両眼が必要なのではないかと思う。
それを示したのが以下の段落だ。

倒れた直後はまったく時計が読めなかった。それが時計であることは分かっていたが、その針がどういう約束で動いているのかが分からなかった。

私には時針は短すぎた。あんなに離れたところから数字を示されてもよく分からない。

もう一つ、目は本来位置や方角には強いはずであるのに、立体視のために使うようになったことで逆に混乱を招いていることである。

…ずいぶん楽に読めるようになったいまでも、なぜか4時を8時、5時を7時と読み違えることはしょっちゅうある。

例えば片目だけで対象を見ればこのような間違いはないのではないか。視認の主座である利き腕側の頭頂葉に、意味付け情報を与えるための非利き腕視認中枢が、誤った情報を伝えたための混乱なのではないか。
もともと片目が失明している人の場合はどうなのだろうか。