ロシア音楽にハマってしまい、ある意味で無駄な1週間が過ぎた。

今週末にはAALAの学習会でサンダース→コービン→フランスという三題噺をしなければならない。

材料は一応は揃っているのだがレシピが出来上がっていない。

と言いつつ、とりあえず気になっているアリストテレスの「4原因」を整理したくなった。

日本語の解説はたくさんあるが、我田引水が多いので、サラリと読んでいくことにする。わからないところはどれを読んでもわからないのが普通だ。

「宿題」を探し出すのが作業目的ということになるだろう。

まずは

“what & why”4つの原因説

という河合昭男さんの解説から

はじめに

アリストテレスは師であるプラトンのイデア論を認めようとしませんでした。鶏は卵から生まれるものであり、鶏のイデアから生まれるなどということはとうてい認められませんでした。

ものの本質は目に見えないイデアの世界にあるのではなく、そのものの中にこそ存在すると彼は考えました。

ということで、のっけから話は難しい。

もちろんアリストテレスのほうが正しいのだが、プラトンも間違っているとはいえない。卵のDNAにはにわとりとなるためのすべての情報が詰め込まれているのだ。

ニワトリの話はさておいて、我々が物事の本質を探っていく時、まずは現象的事実から出発する。武谷三段階説の言うごとく、現象の底には実体(構造)があり、その奥には本質がある。それをイデアと呼んでも差し支えない。

本質というのは、方程式みたいなもので、一種の抽象的な事実だが、それがより深くにあるものの現象形態だったりするわけで、人間の認識というのはそうやってネジをぐるぐると差し込むような形で進んでいく。

これは人間界から見れば認識論の世界である。逆に物事の方から見れば現象論の世界である。同じことだが順序は逆になる。

ただし実在論としては物事の本質はモノそのものから離れることはないわけで、本質が物事そのものから離れることはありえないのである。

こういういくつかの問題がごたまぜにされているのが、プラトンとアリストテレスのすれ違いの原因になっている。

このことはカント(理性批判)によって提起され、フィヒテ(主観論)とヘーゲル(弁証法)によって展開されたものだ。

ただプラトンとアリストテレスの論争を個別問題として考えると、プラトンは本質有を認識論にすり替え、現実性を剥奪してしまっているわけで、アリストテレスの批判は現実性の取り戻しであり、それ自体としては正しい。

次に進もう。

本質はどこにある?

(プラトンは)イデアなるものは目に見える形で取り出すことができないものであると(主張しました)

この点にアリストテレスは納得がいきません。

(アリストテレスは)むしろ「実体が先にあって、それらを基にして人間が頭の中で抽象化して創りだしたものをイデアと呼んでいるにすぎない」と(考えました)

(その方)が自然な考え方である、というのが(アリストテレスの)主張です。

これは最初の論争とは異なるイシューである。にも関わらず同じ「イデア」という言葉を用いることによって議論が混乱してしまっている。

たしかにプラトンの「見える形で取り出すことができないもの」という表現は微妙である。抽象的であることが認識不可能性と同義で語られる可能性があるからだ。

物事の本質は抽象的な形でしか示されない。しかし人間は物事を抽象的な形で把握することもできる。

物事の本質は無限の彼方にあるものではなく、認識し越えることができる。そういうものだ。しかもそれは段階的なものだ。

その諸段階の先はたしかに無限に続いているかもしれないが、モノの持つ現実性から遊離することはない。それは一歩づつ進んでいく我々の認識の進歩の過程から確信できる。

ということで、アリストテレスは正しい。ただしプラトンのイデアを曲解しているきらいが無きにしもあらず。

しかし、プラトンとアリストテレスの議論はあたかも二人が対話しているようで面白い。

デカルトに対するパスカルの批判、ヒュームに対するカントの批判にも同じようなものを感じる。

ものとは?

という長い前置きがあって(私が長くしてるだけだが)、いよいよ本題に入る。

4大原因というのはいかにも羅列的だと思っていたが、河合さんによると、基本的には二つのようだ。

「もの」はその本質である「形相」とその材料である「質料」から成立しているとアリストテレスは考えました。

口幅ったい言い方になるが、これは私が以前提起した「実体論的規定」と「目的論的規定」という物事の二つの側面と重なる。

当然そのものの本質的規定は目的論的内容にあるわけで、それを前提に話を進めなくてはいけない。

それは「民主主義とは何か」論で口を酸っぱくして言ってきたことだ。

ただし、「形相」というのは合目的性そのものではない。この辺は河合さんの解説ではよく分からない。

とりあえず次に進もう。

目的因と始動因

ここからは河合さんの主観がかなり入ってくる。

上の2つは“What”をめぐる規定であるが、物事には“Why”をめぐる規定が必要である、ということで

物事が“そこにある”目的、すなわち目的因

物事が“そこにある”原因、すなわち始動因

の二つが加えられる。

これは“Why”を満足させるための規定だということになる。

哲学者たちは、そもそも「もの」とは何であるかを議論していたわけですがそれは形相と質料です。

多くの哲学者たちが“what”を静的にとらえようとしていたときにアリストテレスはなぜそれがあるか“why”を時間軸で考えたわけです。

と、非常に前向きにとらえている。

しかしそれは違うでしょう。アリストテレスの勇み足と読むべきだろう。

原因も目的も「形相」に内包されたものだ。

ものは我々から離れてものとして自立している。しかし我々との関係においてそれは意味を持たされる。

ヘーゲル流に言えば「ものとして対象化される」のだ。その時初めて「ものとしての時間軸」を与えられ、原因や目的を付与されるのだ。(あえて「意識」という言葉は使わない)

このあとの「情報システムの4原因説」は河合さん独自のもので、本論とは外れるので省略する。


とりあえずの感想としては、

1.4原因説はアリストテレスのプラトンへの反抗として打ち出されたものだ。

2.アリストテレスの一番言いたかったのは、本質内在論だ。それはプラトンの観念論に対する反論であり、その限りにおいて唯物論的である。

3.しかしそこには自己矛盾が多くふくまれている。基本的には「宣言」として読むべきものである。

4.目的論と始動因は言わずもがなの感がある。むしろ意味論としての「形相」論をもっと深めるべきであった。

5.物事にはすべからく内的な能動的な本質があること、それは人間(主体)との関わりにおいて意味を持つこと、この二つがアリストテレスの主張の核心である。

後段については、「事物に対して観照的であってはならない」という議論と直結するだけに、プラトンの反論がほしいところである。

私なら、「結局、客観的なイデアの代わりに人間の主観を対置し、真理を実践と取り替えたただけではないか」と反論するだろう。