五人組とルビンシュテインの論争に関する、チャイコフスキーの結論。

「無題の器楽曲を作るのは、純粋に叙情的な過程です。それは抒情詩人が詩によって自己を表現するように、音によって心中を打ち明けることです」

みごとに音楽的過程を言い当てていると思う。彼はこの結論を得たあと、標題音楽についても論を及ぼす。

「すべての音楽は標題的です。叙情的作品の場合は作曲家の喜びや苦しみの感情が標題です。しかしその標題は(あえて掲げる)必要がないし、不可能でもあります。これに対し作曲家が外的な刺激を受けて、その霊感を音楽によって表現する場合は標題が必要です。どちらも存在理由を持っています。どちらかを排他的に認めることなどできません」

これも素晴らしい。「標題」を視覚的刺激に留めることなく、より本質的に規定することで、論理の色を抜け出す。

結局、「叙情的な過程」というものが作曲の核心に存在し、それは音楽以外のすべての芸術的過程と共通するものだということになる。

「情」というものを、たんなる刺激の反映ではなく、内的に湧き起こる能動的な力だと理解すれば、叙情か標題かという対立は無意味なものになる。

では内的な力がすべてで、外的な刺激はたんなるきっかけにすぎないのか。そうではない。外的な刺激はそのものが力を持っている。だから外的な力が強い時は、内的な力との合作になる。

これで作曲過程における叙情と標題性の性格は構造化された。ただそれで話は済むわけではない。相争う両派からは折衷派と非難されるかもしれない。

そこでチャイコフスキーは「何のための叙情性であり標題性なのか」を押し出す。

「私の音楽を愛し、そこに慰めと支えを見出してくれる人々の数が増えることを、私は心から願っています」

つまり、出来上がった作品は他の人々にとって「外的刺激」なのであり、その人々の内心に働きかける力なのである。美しい景色や優れた詩のように、心に感動を与え、内的な力を産ましめるように、作品に魂を与え命を吹き込まなくてはならない。

ただ、論争としてはこれで決着がつくのだろうけれど、バッハやビバルディーのような「職人技」の音楽については別な議論が必要になるかもしれない。

(引用はバクスト「ロシア・ソヴィエト音楽史」より)