民主主義とファシズム、ポピュリズムの関係を議論するときに、アリストテレスの「ポリス国家」論を勉強しないとだめだということがわかり、いつものごとくニワカ勉強です。
グールで「ポリス国家+アリストテレス」と入れても、ウィキには「ポリス」でしか出てきません。
最初にヒットするのが アリストテレス『政治学』を解読する Philosophy Guides というページです。すごく読みやすそうにレイアウトされているので、早速トライします。
なお、著者は平原卓さんという哲学者のようです。
最初のところに、
いますぐ概要を知りたい方は、こちらも読んでみてください → 「アリストテレス『政治学』を超コンパクトに要約する
とある。
もちろん、いますぐ概要を知りたいから、そちらに回ることにする。
最初にこう書かれている。
アリストテレスの『政治学』をコンパクトにまとめました。
一番大事なのはポリス(国家)の本質論。その他は実践論でやたらに細かいだけなので、ポイントだけ押さえておけば十分です。
とあるから、まことにありがたい。
目的: ポリスの本質を規定すること。
結論: 人間は善を目的因とする存在。ポリスは最高善を目的因とする存在。なのでポリスは人間にとって本質的なもの。
わかりやすい。ただし「(目的)因」というのが分からない。これは後で調べることにする。
ポリスの本質:
共同体は家族→村落→ポリスと発展する。ポリスは最終的共同体。
ポリスは「市民」から構成される。(「市民」は実質的にはエリート。だからアリストクラシーというのかな?)
ポリスはたんなる生活共同体ではない。なぜならポリスは最高善を目的因とするから。
共和制:
「市民」による共和制が一番良い。
無産者に支配される民主制はだめ。僭主制、寡頭制ももちろんだめ。
徳治ではなく法治:
徳治は「反徳」治になる危険がある。
望ましい生活:
幸福は「よく」行うことにある。ただし、観照や思考のほうが行動的である。
これで終わりだ。
流石にこれではよく分からない。もう少し詳しく見ていく必要がある。
ということで、 アリストテレス『政治学』を解読する に戻ることにする。
1.ポリスの本質
国家は一つの共同体である。
共同体は「よきこと」のために出来ている。
なぜなら、すべての人間は自分がよいと思うことのために活動するからである。
国家(ポリス)すべての共同体を自己のうちに包括するから、最高最上の共同体である。
<平原さんの解説>
どんな事物も何かしらの目的(目的因)をもっている。
なかでもポリスは「最高善」を目指す本性をもっている。なぜなら「よさ」をめがける共同体の最終段階であるからだ。
それは「ただいっしょに生活するため」のものではない。
2.人間はポリス的動物
国家は(まったくの人為ではなくて)自然にもとづく存在の一つである。
また人間は、その自然の本性において国家をもつ(ポリス的)動物である。
人間は、完成されれば動物のうちでも最善のものだだ。
しかし、法律や法的秩序から離れてしまうと、あらゆるもののうち最悪者となる。
これに関して、 「人間はポリス的動物である」の意味は? という文章が別にあるそうだ。あとで見に行こう
3.よき市民とは?
略
4.正しい国家体制は?
アリストテレスによれば、国家体制には、王制、貴族制、共和制、僭主制、寡頭制、民主制があり、特に最初の3つの体制が正しい。王制、貴族制、共和制のなかでも、大衆が参加する共和制が国家体制のスタンダードだ。
これは「つかみ」の文章から前進はしていない
5.行動的生活
「行動的生活」とは、ポリスの政治に関わる生活のことだ。
アリストテレスは、実際の政治行動よりも「行動を目的とした観照」(テオーリア)のほうが行動的だと主張する。
6.プラトンとアリストテレス
プラトンは「国家」の中で「哲人政治」を主張した。哲学者がポリスの王となって統治するのが最も幸福なのだという。
アリストテレスはこれを否定したといえる。
どうもあまり前進したとは言えない。
まぁとりあえず、先程の文章に行ってみますか。
1.「ポリス的動物」は「社会的動物」ではない
市民国家は、きわめて同質的な人間から構成される市民社会と定式化される。
しかし、アリストテレスは「ポリス=社会」と考えていたわけではありません。
2.4原因説
アリストテレスは、存在するものは必ず素材因、形相因、始動因、目的因という4つの「因」を備えていると考えていました。
素材因 とは、事物がそこから生成するところのもの。
形相因 とは、事物の形相(本質、概念)または原型のこと。
作用因 とは、物事を始動または停止させる第一の始まりのこと。
目的因 とは、物事がそのためにあるところのもの。
これは私の考えだが、
今日では次のように言うことができるだろう。
①事物は存在であると同時に過程であること。
②したがって、全てのものには歴史があり未来があり、
③固有のエネルギーがあること。
しかし当面は目的因 が大事である。それは事物と“私”あるいは“私たち”との関係を規定している。
事物を実体論的にだけではなく、目的論的に捉えることが大事だということだ。
3.ポリスの目的因
家族が集まると村落ができる。それは日々の必要だけに限定されない共同である。同じように村落が集まって国家(ポリス)となる。
村落の生成理由はわれわれが生存するための必要によるものであるが、ポリスの存在理由はわれわれの生活をよくすることにあるのである。
自足性というものは、共同体にとっての一つの目的であるが、それは究極的に善として求められる。
その究極的目的(最高善)は国家において実現されるのである。なぜなら人間の目的因も「善」だからです。
4.政治学の目的
ポリスはそこに住む自由市民がポリス的動物として、徳を積むことめざす。
それを可能とする条件を探すのが政治学である。
とてもわかり易くてよかったが、「本当にこんなものかいな」という疑問も若干よぎる。
ポリス国家というのは、二面性を持つということ。下に対しては寡頭政治であり、上に対しては共和政治だということ。
結果として人は押し出すが、自分は追い出されたくないというところに帰結する。その口実として衆愚政治の危険が持ち出される。
下層階級の声が高まれば、それは引かれ者の小唄となる。
ただし、現代国家の無機質性に対し、「善」の考えを押し出していることは注目に値する。現代政治の抱えるさまざまなジレンマを乗り越えるためには、大なり小なり前向きの倫理観(たんに悪いことをしないというだけにとどまらない)というものが要求される。私はそれを「思想としての民主主義」と呼びたいが…)
ここに「立憲主義」の素材因 としてのヒントが隠されている可能性はある。
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