本日は夕方から伊藤真(伊藤塾塾長)さんの講義を聞きに行ってきた。
「立憲主義って何?」という題で100分。
まさに立て板に水という感じでさらさらと流れていく。まことに見事な水際だった講義だった。
終わるなり、「はい、本日は質疑応答はございません」ということで、そそくさと会場をあとにした。その足で東京に帰るのだという。
しかし決してつまらなかったというのではない。いくつかの聞き逃せないポイントもあって、きわめて充実した100分であった。正直言うと、歳のせいか最後の15分位は頭が回らなくなるほどであった。
予備校などで東京の人気講師が出張で特別講義をすることもあるようだが、まさにそういう感じだった。
ただし、ただしである。
「立憲主義ってなに?」という演題にもかかわらず、立憲主義ってなんなのか、結局わからなかった。
講義が終わって、「はい、それでは “立憲主義とは何か” レポートを書いてください」と言われるとはたと困ってしまうのである。
話の中身のほとんどは「憲法とは何か」みたいな話であり、憲法改悪を狙う安倍政権の行動は、立憲主義の破壊でもある。したがって憲法改悪策動に反対して闘うことが「立憲主義を守る」戦いである、という一種の循環論法になっているように聞こえてしまう。
主催が「東区9条の会」であり、聴衆のほとんどがおじさん、おばさんばかりだったから、そういう話になったのかもしれない。専門家が集まる会合であればもう少し違った話になったのかもしれない、というのがとりあえずの感想だ。
もう頭も回らなくなってきているので、かんたんに議論の骨組みというか問題の所在について書き留めておきたい。
立憲主義をマグナカルタの思想にもとめるというのは、根本となる考えである。主権在民の意志を憲法という形で定式化し、それで権力の手を縛るというのが立憲主義だ。
これについては一握りの御用学者を覗いて誰しも一致するだろう。
もう一つは「民主主義」が暴走する際に、歯止めとして憲法を位置づけるという考えである。これがなかなか難しい。ナチスを生み出したのもトランプを大統領に押し上げたのも「民主主義」だ、という前提がある。
もちろんその民主主義は真の民主主義ではなく「手続き民主主義」にすぎないので、我々が目指すべきものとしての民主主義そのものではない。
しかし立憲主義を唱える人の中には民主主義に対するペシミズムと密かな貴族趣味への郷愁を忍ばせている向きもある。それはハンナ・アーレントに通じるものがある。
民衆の自律的運動を右でも左でもポピュリストとして一括し、よりあからさまに民主主義への蔑視を公現する人もいる。彼らから見れば、「地獄への道は善意で敷き詰められている」のである。
しかし考えても見てほしい。マグナカルタはすでに千年近い昔の話である。それだけの時間をかけて人類社会はようやくここまで来たのだ。そうかんたんに民主主義に絶望しないでほしい。
「天国への道もそれ以上に善意で敷き詰められている」のである。
社会の進歩は積み重ねだ。最初は法治主義、ついで立憲主義が積み重なって、その上に民主主義の地層が出来上がろうとしているのだ。こういう階層的な構造の構成部分として立憲主義を見ていく視点が必要なのではなかろうか。