すでにこの時点で、エミシの用法はなくなっている。津軽・北海道をふくめエゾで統一されており、アイヌ語を喋るアイヌ人と考えて良いだろう。ただし津軽のエゾが狩猟・採集民族であったかどうかは疑問である。


安藤家の歴史

骨嵬と元との戦争

1216年、鎌倉幕府が、強盗海賊の類50余名を蝦夷島に追放する。

1217年 鎌倉幕府、藤代の安東堯秀(五郎)を津軽外三郡守護に任命。あわせて「東夷を守護して津軽に住す」蝦夷管領に任命する。安東家が交易船からの収益を徴税し、それを北条得宗家に上納する仕組み。安東氏は出羽の湊(土崎)と能代川流域の檜山、宇曾利(下北)および萬堂満犬(まつまえ)も勢力下に納めた。

1229 安藤堯秀が十三湊を支配する十三左衛門尉藤原秀直(奥州藤原氏の末裔)を萩野台合戦で破る。藤原秀直は渡島に追放され、安東氏が十三湊に移り港湾の整備や街路の建設を行う。

1246 幕府、陸奥国糠部五戸の地頭代職に甲斐の御家人南部氏を指名。安藤家の支配地は津軽半島一帯の3郡に狭められる。

1264年 樺太で骨嵬(くぎ・くい)が吉烈迷(ぎれみ)を攻撃。吉烈迷は蒙古に救援を求める。3千の蒙古軍が骨嵬を攻撃し樺太を占領。骨嵬は蒙古への朝貢を約束。骨嵬は樺太アイヌ、吉烈迷はギリヤーク(ニブフ)人と言われる。

1268年 津軽で仏教の押しつけに反発した蝦夷が蜂起。蝦夷代官の安藤五郎が殺害される。背景には蝦夷に対する苛烈な収奪があったとされる。樺太での蒙古との衝突が戦費増大をもたらした可能性もある。

1274年 元軍が北九州に襲来(文永の役・弘安の役)。

1281年 元軍が北九州に二度目の襲来(弘安の役)。

1283年 元、骨嵬に対して兵糧用の租税を免除。阿塔海が日本を攻撃するための造船を進める。

1284年 骨嵬は元に反旗を翻す。戦いは86年まで続き、元は1万以上の兵力を投入。

1295年 日持上人が日蓮宗の布教活動の為に樺太南西部へ渡り、布教活動を行ったとされる。

1297年 瓦英・玉不廉古らが指揮する骨鬼軍が反乱。海を渡りアムール川下流域のキジ湖付近で元軍と衝突。(安東氏がアイヌを率いて侵攻したものとされるが証拠はない)

津軽大乱

1300年頃 鎌倉幕府の衰退に伴い、京都とをつなぐ日本海航路の重要性が増す。日本海ルートの拠点、十三湊が急成長。昆布と鮭の交易により財を成す。

1308年、骨嵬が元に降伏。これ以後、樺太アイヌは元に安堵され、臣属・朝貢する関係となる。

1318年 津軽大乱が発生。惣領の安藤季長(又太郎)と従兄弟の安藤季久(五郎三郎)との間の内紛。蝦夷沙汰職相続を巡る争いが続く。両者が幕府要人に贈賄合戦。

1320年 出羽の蝦夷が蜂起。戦いは2年におよぶ。蝦夷代官・安東季長が鎮圧に乗り出すが、蝦夷に撃退される。

1322年、津軽大乱が始まる。両軍は岩木川を挟んで外が浜(青森市)と西が浜(現深浦)に対峙する。

1322年 得宗家公文所が仲裁裁定。出羽のエゾ蜂起に対する鎮圧作戦の失敗を咎め、蝦夷代官職を季長から季久に替える。季長は裁定に服さず戦乱は収まらず。

1326年、鎌倉幕府、陸奥蝦夷の鎮圧のため工藤祐貞を派遣 。西が浜の合戦で安藤季長を捕える。季長郎従の季兼は「悪党」を集めて抵抗を続ける。

1327年 鎌倉幕府、「蝦夷追討使」軍を再び派遣。安藤季兼軍は西浜で幕府軍を迎え撃ち、小部隊による奇襲戦術で甚大な被害を与える。

1328年 幕府と安藤季兼軍とのあいだに和談が成立。季兼一族に安堵を与える。安藤季久は支配地の他に「蝦夷の沙汰」を確保するなど既得権を守る。幕府の権威は大きく失墜する。

1331年 元弘の乱。津軽で大光寺・石川・持寄等の合戦起こる。十三湊の下の国安東氏(宗家)と大光寺城に拠点を置く上の国安東氏(分家)に分かれる。

1333年 鎌倉幕府が滅亡。建武中興。北畠顕家が奥州に下向。このあと安藤家は新政府(朝廷)側に与し旧勢力側と対峙。

(このへんよくわからないので、調べて書き足します。あまり本筋とは関係ないのだが…)

1335年、足利尊氏が建武政府に反旗。南北朝の対立がはじまる。曽我・安藤家は足利につき南部師行・政長・成田泰二と戦う。

1336 足利尊氏が光明天皇を擁立、北朝を掌握する。安藤家は北朝方(足利尊氏)に与し、津軽合戦奉行(北奥一方検断奉行)を命じられる。

1356年、「諏訪大明神絵詞」のなかでアイヌのことに言及。

1368年、元が中国大陸の支配権を失い北走、満州方面を巡って新興の明を交えての戦乱と混乱が続き、樺太への干渉は霧消する。 

1395 安藤氏、北海の夷賊を平定しさらなる領地を獲得、再び将軍(日之本将軍)の称号を得る。

1400年頃 政権の交代に伴い、十三湊が全盛期を迎える。

西の博多に匹敵する北海交易の中心となる。アイヌの交易舟や京からの交易船などが多数往来した。廻船式目によれば、十三湊は「三津七湊」の一つに数えられる。「夷船京船群集し、へ先を並べ舳(とも)を調え、湊市をなす」賑わいを見せる。街は南北約2キロ、東西最大500m。幅4~5mの直線的道路が走り、安藤家の居館跡や板塀で囲われた武家屋敷跡、短冊形で区分けされた町屋、寺院墓地、鍛冶・製銅などの工房、井戸跡などが発見されている。中国製の陶磁器、高麗製の青磁器、京都産と思われる遺物も発見されている。

室町幕府が成立。北朝=足利側についた安藤氏は、鎌倉府や奥州探題を飛び越えて室町将軍に直属する(御扶持衆)。

1409 三戸南部氏が津軽に侵入。津軽の西半分は秋田・安東氏、東半分は三戸南部氏、浪岡周辺は浪岡氏が支配する。

1418 南部氏が上洛、将軍足利義持に金や馬を献上。津軽国司に任ぜられる。

1423 安藤陸奥守、足利義量の将軍就任に際し馬・鷲羽・海虎皮等を献上。室町幕府より陸奥守の称号を得る。さらに後柏原天皇から「奥州十三湊日之本将軍安倍康季」の称号を賜る。日本(ひのもと)将軍は北海道の管理職を意味する。

1432 安藤盛季・康季、南部氏に敗れ蝦夷島に撤退、幕府が調停に乗り出す

1442 安藤盛季・康季、南部義政に敗れ、十三湊を追われ再び蝦夷島に渡る

1452 安藤義季、南部勢に攻められ自害 安藤氏嫡流の断絶