前九年後三年の役

前九年の役

1000年頃 安倍忠頼、衣川以北の陸奥国奥六郡に半独立的な勢力を形成。

1050年 多賀城の国司、陸奥守藤原登任は朝廷に安倍氏討伐をもとめる。安倍頼良(忠頼の孫)は役務を怠り、税金も納めず、衣川を越えて南に支配を拡げようとしていたと非難される。

1051年 前九年の役が始まる。藤原登任、数千の兵を陸奥国奥六郡に派遣。秋田城介の平繁成も国司軍に加勢する。

11月 玉造郡鬼切部(おにきりべ)で朝廷軍と安倍軍が衝突。安倍頼良の圧勝に終わる。官軍は散を乱して壊走。大和朝廷は藤原登任を解任し、河内源氏の源頼義を陸奥守に任命。

1052年 朝廷、上東門院の病気快癒祈願の為に大赦をおこなう。安倍頼良は朝廷に逆らった罪を赦される。

1052年 源頼義が陸奥に着任。安倍頼良は、頼義と同音であることを遠慮して名を頼時と改める。

1053年 源頼義、陸奥守のまま鎮守府将軍を兼任。鎮守府の場所は不明だが、奥六郡に境を接する衣川あたりと思われる。

1056年2月 阿久利川事件が発生する。源頼義の支隊を安倍貞任(頼時の嫡子)が攻撃したとされる。ふたたび戦闘が再開される。

1056年 安倍頼時の女婿でありながら源頼義の重臣であった藤原経清は、頼義の粛清を恐れ安倍側に寝返る。

藤原経清の話はややこしいが大事なので、ここにまとめて書いておく。
経清は安倍氏と同じ俘囚の身分で、朝廷に協力し亘理の権大夫の官名を受けていた。藤原の名は下総からの流人の流れを引いているためとされる。
妻は安倍頼時の娘であり、息子が清衡である。自らは厨川で朝廷軍に捕らえられ斬罪となるが、妻は安倍氏に代わる清原氏に嫁し、清衡は清原家養子となった。これは前九年の役が最終的には安倍氏と清原氏の出来レースであったためである。
清衡は後三年の役で源義家に就き、清原家の権力を一身に集めた。その上で、実父の藤原の家名を復活させ、奥州藤原氏の始祖となった。

1057年
5月 源頼義、安倍富忠ら津軽の俘囚と結び、頼時軍の挟撃を図る。頼時は津軽説得に向かうが、富忠の伏兵に攻撃を受け横死。安部貞任が後継者となる。

11月 源頼義、兵隊1800余りを率いて国府より出撃。北上川沿いに北上。貞任は川崎柵(現一関市)に4000名の兵を集め待機。

11月 川崎の柵近くの黄海(きのみ)で両軍が衝突。頼義軍は寡兵の上に食料不足で惨敗。戦死者は数百人に達する。源頼義・義家父子はわずか7騎になって、貞任軍の重囲に陥るが、かろうじて隙をついて脱出

1062年春 源頼義の陸奥守の任期が切れる。高階経重が着任したが、郡司らは経重に従わなかったため、再び頼義が陸奥守に任ぜられる。

7月 源頼義、出羽国仙北(秋田県)の狄賊の清原光頼を味方に引き入れ、安倍一族に再挑戦。朝廷側の兵力はおよそ1万人と推定され、うち源頼義の軍は3千人ほどであった。

8月 頼義軍、小松の柵の戦いで安倍軍に大勝。さらに北上。衣川柵、鳥海柵を撃破する。

9月17日 安倍氏の最後の拠点、厨川柵、嫗戸柵(いずれも盛岡市内)が陥落する。安倍貞任の遺児高星は津軽藤代に逃れて安東太郎と称する。

今昔物語集』第31巻第11「陸奥国の安倍頼時胡国へ行きて空しく返ること」の説話は、筑紫に流された貞任の弟宗任が語った物語とされる。誰かが行ったことは間違いないが、頼時本人ではなかったと思われる。

1063年 源頼義は伊予守に転じ、源頼俊が陸奥守後任となる。奥六郡は清原氏に与えられる。1065年 「衣曾別嶋」(えぞのわけしま)の荒夷(あらえびす)と、閉伊7村の山徒が反乱。源頼俊の命を受けた清原貞衡が制圧に向かう。延久蝦夷合戦と呼ばれる。

衣曾別嶋は青森から下北あたりを指すといわれるが、下北と関係の深い胆振・千歳のエミシが加勢に来たとしても不思議はない。ただ渡党ほど強くはなかっただろう。荒夷は縄文語を話すエミシを指すのではないだろうか。

1070年 清原氏が閉伊7村を制圧。清原貞衡は鎮守府将軍に任ぜられ、陸奥も支配することになる。建郡が行われ、久慈郡、糠部郡などが置かれた。同時に陸奥鎮守府と出羽秋田城に分かれていた東夷成敗権が鎮守府に一本化された。

いずれにしても肝心なことは、和風化したエミシが初めて同胞に向かって刃を向けたということである。当初はおなじ和人化エミシである安倍一族に刃が向けられ、ついで朝廷にまつろわぬエミシにまでそれがおよんだことになる。その後清原氏が空中分解するのは当然のことであろう。しかし「大和政権の走狗」としての伝統は松前氏にまで受け継がれることになる。


後三年の役

1083年 源頼義の嫡男の源義家が陸奥守を拝命し、着任。

頼義・義家の親子は悶着を起こすのをこととしてるようにみえる。きっと多賀城・鎮守府内の好戦派集団に担がれて、その気になったのだろう。しかし朝廷にこれを抑える力はないから、実質的に関東軍化している。

1083年 清原家の相続をめぐり内紛。後三年の役が始まる。

1086年 源義家、分裂した一方に味方し、出羽に侵攻する。沼柵(横手市)の戦いに敗れ撤退。

1087年12月 義家軍がふたたび出羽に侵攻。金沢柵(横手市金沢)の戦いに勝利する。これにより後三年の役が終結。

朝廷はこれを頼家の私戦と判断。戦費の支払いを拒否し、義家の陸奥守職を解任する。義家は自らの裁量で私財をもって将士に恩賞したため、関東における源氏の名声を高める結果となった。

平泉王権の栄華

1087年 義家についた清原清衡は、実父藤原経清に従い藤原姓を名乗る。奥州藤原氏の統治が始まる。清衡は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物を続け、信頼を勝ち取る。

義家がいなくなっても多賀城・鎮守府内の好戦派は残り、再戦の機会をうかがっている。これに対抗するには、多賀城の頭越しに朝廷と直接関係を結ぶしかないと考えたのだろう。錦の御旗を失った多賀城は凋落し、平泉王国は絶頂の時を迎える。

1094 藤原清衡、平泉より外ヶ浜(現青森市)につながる「奥の大道」を整備する。また津軽に立郡が行われ、大和朝廷の直括支配下に編入される。

もちろん主目的はロジスティックスだろうが、この道を通って蝦夷の産品が持ち込まれ、それが京都の公家への鼻薬になれば、黙認されるであろう。
かくして京の街には大量の蝦夷産品が流れ込み、ブームを形成した。

1099年 藤原清衡、盛岡より南進し平泉を開府。

1110 この頃成立した「今昔物語」に「今昔、陸奥の国に阿部頼時という兵ありけり。その国の奥にエゾというものあり」と記載。「エゾ」の初出とされる。陸奥の奥はツカロ(津軽)と呼ばれる。

1111 出羽国で反乱。守護源光国は任務を放棄。このころ、鎮守府将軍の藤原基頼、北国の凶賊を討つという。

1124年 清衡によって中尊寺金色堂が建立される。平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となる。

1126年、藤原氏(清衡)の支配が津軽にも及ぶ(推定)。外の浜まで一町ごとに笠卒都婆を建てる

1131 藤原氏はアイヌの物産を京に運ぶことで財を成す。京都の朝廷は清衡を「獄長」と表現。「奥六郡」における「俘囚の長」としての扱いを貫く。

1143 琵琶の袋としてエゾ錦が用いられるなど、エゾとの交易が文献上で確認されるようになる。

和人化したエミシは日本人として認識されるようになる。これに対し津軽・北海道のエミシは依然として異人とみなされ、エゾと呼ばれるようになる。

1150 藤原親隆、歌の中に「えそがすむつかろ」(蝦夷が住む津軽)と表現。

1153 平泉政権の二代藤原基衡、年貢としてアザラシの皮5枚ほかを上納する。北海道まで交易・支配が及んでいたことが示唆される。その後秀衡の時には鎮守府将軍・陸奥の守に任官される。その兵は奥羽17万騎と称される。

奥州藤原氏の滅亡

1185年 奥州藤原家、源頼朝に追われた義経を秘匿。後、頼朝の圧力を受け殺害。

1189年7月 頼朝軍が奥州に侵攻。藤原氏を滅ぼす。泰衡は糠部郡に脱出。出羽方面から夷狄島を目指すが、肥内郡贄柵(現大館市仁井田)で討たれる。秀衡の弟藤原秀栄は十三湊藤原氏の継承を許される。
1189 幕府は奥州惣奉行を設置。御家人(東国武士)を旧藤原領に配置し奥州の支配を強化。一方で朝廷の多賀城国府も存続し、出羽国内陸部では旧来の在地豪族が勢力を保持。東国武士と在地勢力の軋轢が強まる。

1189年12月 安平の郎党で八郎潟の豪族だった大河兼任が反乱。

1190年1月 大河、津軽に入り鎌倉軍を撃破したあと平泉を奪還。藤原氏の残党を配下に加えて一万騎に達する。

3月 大河軍、栗原郡一迫で鎌倉軍と対決するが、壊滅的打撃を受け敗走。兼任は敗死。

1190年 安藤季信が、津軽外三郡(興法・馬・江流末)守護・蝦夷官領を命ぜられる。季信は安倍氏の末裔で、頼朝の奥州攻めで先導をつとめた安藤小太郎季俊子。(実体的支配は1217年以降と思われる)

鎌倉幕府は、経済的収奪はしっかりしたが、朝廷とは異なり人種的偏見は見られない。時代が変わったためであろうか、彼らも縄文の血を色濃く受け継いでいたためであろうか。

1191 頼朝軍の代官南部氏が、甲斐の南部から陸奥九戸、糠部へ移住。