瀬川さんが折りに触れ強調するのが「縦割り交流」である。

これは私が勝手に名付けたものだが、北海道と東北の経済・文化交流には二通りの流れがあるというもので、一つは秋田・津軽と松前・檜山につながる日本海側ルート、もう一つは陸奥(八戸)から恵山・胆振・千歳線地域につながる太平洋ルートである。

とくに後者は、これまで注目されて来なかったが、擦文文化時代にはむしろ主流ではなかったのか、というのが瀬川さんの主張である。

これは考古学的事実の積み上げによって得られた推論ではあるが、歴史学的にも説得力があると思う。

アテルイが日本語で喋っていたのか縄文語だったのかは興味のあるところではあるが、この時点で津軽の人々は間違いなく縄文語で生活していた。津軽は和人化を拒否していたのである。

だから日本海側では秋田と津軽が縄文人と和人の境界だった。朝廷が秋田を事実上放棄して以降は、秋田も縄文人の勢力範囲だった可能性もある。

しかしそのような俊絶的な境界は太平洋側には存在しなかった。

和風化とバイリンガルな世界は徐々に北上し、やがて海を渡って胆振から千歳線領域まで拡大したのではないかと考えられる。

これが西暦900年前後の擦文世界だ。

ところが津軽の縄文人が農耕生活を開始し、富強化することによって状況は一変する。

津軽・出羽の縄文人は日本海沿いに北上し宗谷まで及ぶ縄文語世界を形成する。そして陸奥側への進出を図る。

それがポイヤウンペの英雄譚であったのだろう。

ポイヤウンペをめぐるユーカラは二つのセクションからなる。

一つは海獣の漁場をめぐる争いである。彼はハンターの最前線である浜益で石狩の既得権層と争い、礼文のオホーツク人とも共闘しながら勝利する。

もう一つは、胆振のアイヌ人集団との戦いである。この場合胆振・支笏のアイヌ人は化物とみなされていることだ。

ポイヤウンペはこの戦いでは敗北し、ほうほうの体で逃げ帰ったことになっているが、最終的には勝利したことが示唆される。

大事なことは、このポイヤウンペの戦いが胆振アイヌの本拠地たるべき平取で語り継がれていることだ。平取がこの神話を受け入れたということは、胆振アイヌが日本海アイヌに敗れ、屈服し、その神話を受け入れたと言うことになる。

このことから何が分かるか。

アイヌ人は津軽・出羽縄文人の末裔であるということだ。そして道央に発展しつつあった陸奥関連の縄文文化は、それに従属・吸収されてしまったということだ。
それは考古学的にも確認できる。擦文文化の象徴は深い竪穴住居だ。これは東北北部でも共通して見られた。しかし11世紀になると東北北部に平地住居に代わり、それが11世紀末には北海道にも波及する。ただしその交代は日本海側でのみ出現し、太平洋側で平地化が始まるのはさらに100年ほど遅れる。

諏訪大明神絵詞では、「蝦夷カ千島」には日の本、唐子、渡党の三種が暮らすとされる。日の本は津軽秋田の和人化したエミシであり、渡党は髭が濃く多毛であるが和人に似て言葉が通じたとあるから、バイリンガル化した縄文人であろう。とすれば唐子は何か。この絵詞が書かれたのは1356年であり、もはオホーツク人とは考えられない。ひょっとすると、これが胆振・千歳の擦文人であったかもしれない。

なお、「東日流外三郡誌」なるものがあるが、内容的にみれば2チャン並みの「偽書」である。