エミシの復活とアイヌ民族の形成

瀬川さんの「アイヌと縄文」がまだ半分残っている。なにか一度読んでしまうと、また読み直す気がしなくなるのだが、整理しておかないと後々困るので、気を取り直して再開する。

瀬川さんの記述で勘所となっているのが、時期としては西暦900年から1100年までの200年間だ。

すでに北海道では後期縄文から擦文時代に入っており、その中にアイヌ文化が育ち始める。

その経過は謎に包まれているが、ことはアイヌのアイデンティに関わるので、ゆるがせには出来ない。

これまでの瀬川さんの所論をまとめると、アイヌ人は多少のオホーツク人の血を混じているとはいえ、基本的には縄文人の流れだ。アイヌ語は縄文語の嫡流だ。

一方、東北のエミシは和人と混血し和風化した縄文人だ。にも関わらず彼らは和人から「異人」とみなされ、その社会形態は暴力的に破壊された。

しかし、エミシ独自の政治形態が消滅するや、彼らは和人として遇されるようになった。

にも関わらず、北海道の縄文人は同化を拒否し、独自の言語を守ることによって“アイヌ人となった”のである。

この差は何なのか、それを生み出したものは何なのか。その謎を解く鍵が9世紀後半にある、というのが瀬川さんの主張である。

Ⅰ 東北エミシの復活と一体化

まず瀬川さんの論建てを紹介する。

1.9世紀後半になると気候が温暖化する。この傾向は出羽(秋田県域)を除く東北全域に見られる。これに伴い東北各地で人口が急増している。

2.とくに津軽(大和朝廷の支配がおよばないエミシの地)で水田、鉄器、塩、窯業(須恵器)が一斉に始まる。これらはエミシの自発的な農耕民化とこれによる富強化を意味する。いわばエミシ・ルネッサンスだ。

3.津軽の自発的成長が顕著になると、北海道にも津軽産の須恵器、鉄器が見られるようになる。コメも出てくる。

つまり、津軽に農耕をこととする縄文(エミシ)文化が勃興し、東北全体に影響力を広げる一方、北海道は自足自給を基礎としつつ、貿易相手として津軽と相対することにより漁労・狩猟生活に特化・発展していく、という経過になる。

その証拠として、瀬川さんは、縄文時代に比較的均等に分布していた集落がいくつかの生産点に集中し、他は無人の野となっていく考古学的事実を上げている。

B 大和朝廷の弱体化

これとは逆に律令国家・大和朝廷の力が弱体化したこともある。
私の勉強したところでは田村麻呂のような軍人はもはや存在しなくなり、政治は内向きとなり摂関政治へと移行する。

各地で俘囚(エミシ)の反乱が相次ぎ、大和朝廷は出羽を放棄するに至る。正面戦を互角に戦える力を得たエミシ豪族らは自らの統治を朝廷に承認させる。

朝廷に代わって、関東で組織された武装集団が東北に介入するようになる。和人支配の弱体化は、征夷大将軍として幕府を開いた源頼朝が、奥州討伐を行う1189年まで続く。

この頃日本国内の勢力分布は東北・関東に偏っていたのである。律令国家のもとでは勇猛な防人として使役された関東の人々が東夷(あずまえびす)として、第一級国民としてみずからを承認させる。

これらの事情が、北海道にアイヌ人国を生む背景となっていったということであろう。