滝平二郎の展覧会をまだ語っていない。
実は、この日まで、滝平二郎はどう読むのか知らなかった。滝さんなのか滝平さんなのかもわからなかった。
皆さんわかりますか。この人は滝さんでもタキヒラさんでもなく、タキダイラさんなんです。
もちろん目玉は朝日新聞に連り絵」の連作であるが、「滝平の真骨頂はその前にあった」、ということがわかった。この人は「漫画家」だ。絵描きにしては語るべきストーリーが有りすぎる。版画家にしては色彩への欲がありすぎる。だから芸術家の範疇にとどまれない、だから漫画家になるのだ。
「切り絵」の方は「あぁ、きれいだね」というくらいのもので、それでも十分目の保養にはなるのだが、例えば宮﨑駿などの原画展と比べてとくに出色というわけではない。
ということで、とにかく圧倒されるのは初期の「戦争敗走記」という連作。
どれもすごいのだが、とくにこれは食いつかれる感じがする。皆さん、展覧会に行ったら逆回りした方がいいです。とにかく最初から疲れちゃう。
「猿」と題されている。
おそらく自画像(24歳の)であろう。
異形である。人間とは思えない凄まじい形相であるが、眼は完璧なまでに虚ろである。「失感情」よりもっと高度の「失外套」に近い状況だ。この状態で突かれたり切られたり撃たれたりしても、あるいは食われても、苦しみの表情さえ浮かべることなく死んでいくだろうと思われる。しかしその前に、およばずとも噛み付くくらいはするかもしれない。
大岡昇平の「俘虜記」にも「猿」の話が出てくる。人肉を「猿」と称して食う話である。本当に猿と思ったのかもしれない。
滝平は1921年生まれ、新進の版画家として活動を始めた42年(昭和17年)に召集された。最後の任地が沖縄だった。
滝平の手記「山中彷徨」から引用する。
硫黄島玉砕、東京大空襲―あれよあれよという間に、米軍機動部隊が私たちの沖縄本島をとり囲んだ。
およそ1週間の間断ない砲爆撃の後、こともあろうに私の誕生日の4月1日に米軍が上陸した。
6月の終わりに沖縄守備軍玉砕。そのことも知らずに私は、なおも山中を逃げ回った。疲労の果てに仲間からはぐれてしまってからも、一人ぼっちで彷徨い続けた。
奥深い山中の、小さな泉のほとりには、たいてい誰かが仰向けに寝て落命していた。
…いきなり鳥の大群が不気味に鳴いて飛び立ったあとに、兵隊服の白骨が散乱している光景にも、しばしば出会った。
…それは、一匹の虫けらのように自分が縮んでいく瞬間でもあった。
…昼間は何よりもひと目を恐れた。たえず誰かに見つかりはしまいかと落ちつかなかった。
なるべく深い繁みをえらんで、その下に身を横たえて時たま通過する米軍機の音をぼんやりきいていたとき、とつぜん頭上の木の枝を、薄緑色の尻尾の長い動物が、梢の方へつつっと走って、ゆっくり首をまわして私を見おろした。大きな目が「見つけたぞ!」というように私を直視していた。
私はバネ仕掛けのように飛び起きて逃げ出した。あの小動物がなんであったか、今もってはっきりしない。
雨上がりの赤土の小道を握りこぶしほどの亀の子がゆっくり歩いていた。はっとたじろいだ私の目の前で、みるみるうちにひと抱えもある怪物のように大きくなった。太いしわしわの首を伸ばして、じろっと私を見た。私は奇声をあげて土くれと言わず石くれといわず怪物めがけて投げ続けた。
…こうなると、一人芝居も凄愴味を帯びて私は完全なノイローゼになっていた。
8月3日の夜半、生け捕られて俘虜となった時は、もうすっかり癒えていた。
「もうすっかり癒えていた」と言うが、この絵を見ると明らかに「癒える」どころかさらにひどい状態に陥っている。
その表情は、前頭葉への回路を完全に遮断した状況を示している。考えることを止め、感じることもやめ、無理やり脳を冬眠状態に陥れることによって、かろうじて心のバランスを取り戻したのだ、そうやって大脳機能を守ったのだ、と察する。
「反省だけなら猿でもできる」と言うが、この状態ではそれも出来なかったろう。つまり「猿以下」だ。
それにしては、釈放後1年でこれだけの絵をかけるのだから、この人はとんでもなく丈夫な神経をしている。
向き合ううち、この絵から怒りが噴き出していることに気づく。滝平さんは怒りの感情が溢れてくるから、この絵がかけたのだと思う。
許せないから、尋常の生理的反応に逆らって記憶の回路をこじ開け、凄惨な体験を呼び起こし、この凄まじい作品を残さずにはいられなかったのだろう。
手記の最後はこう締めくくられている。
戦争体験は、それを語る人の思想によって、さまざまに形を変え、命を吹き込まれて伝えられる。
私には、悲惨さ以外に伝えるものは何もない。
絵もすごいが、文章も隙きがない名文だ。表現は控えめだが、間然としたところはない。なんとかこれを「紙芝居」に出来ないだろうか。
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