「貨幣資本と現実資本」(「資本論」第3部第30-32章)の草稿について

の続き

【補論】三宅義夫氏の大谷批判の一部について

~小野朝男氏による「大谷氏の泣き所」

この文章は、かなりややこしい。まず大谷さんの「草稿研究」があって、これに対して三宅さんという人が批判した。この批判の内容を小野さんが紹介しつつ、「大谷氏の泣き所をついたもの」と評価している経過がある。

したがって大谷さんは三宅さんの批判に答えつつ、小野さんの批判にも答えなければならないという形になる。

1.25章、27章はそれ以降の論述に対する「序論」部分なのか

小野さんによる「三宅さんの大谷批判」の要約: 大谷さんは第3巻第5篇が信用論ではなく、「利子生み資本が信用制度のもとでとる諸姿態の分析」であると主張する。
第25章と第27章で「信用制度の分析」はあるにしても,それは「利子生み資本が信用制度のもとでとる諸姿態の分析」をする本論のための「準備過程」にすぎないと主張する。

三宅さんの原文(三宅さんの文章はいささか下品であるため修正): 大谷氏は、現行版第25~第35章の部分の本論を,第21~第24章につづく『利子生み資本論」と見るべきであるとして,これを「信用制度論」だと見る見解に反対する。
しかし、「利子生み資本が信用制度のもとでとる諸姿態の分析」なるもの自体が信用制度論そのものではないか。

ここから大谷さんの反論が始まる。

信用制度にかかわる論究をすべて「信用制度論」だと呼ぶのら,「利子生み資本が信用制度のもとでとる諸姿態の分析」はまさに「信用制度論」である。

三宅さんはかねてから3部第5篇の2部分構成説を掲げてきた。それは①「利子生み資本論」(第21-24章)と②「信用制度論」(第25-36章)の2部分からなるというものである。

私は、(草稿を研究してきたものとして)この2部分説に反対である。草稿第5章の全体は,①第21-24章部分(草稿の「l)」-「4)」),②第25-35章部分(草稿の「5)」),③第36章部分(草稿の「6)」)の3部分から成っている。

それぞれは,①利子生み資本の概念的把握,②信用制度下での利子生み資本すなわち貨幣資本(moniedcapital)の分析,③利子生み資本の歴史的生成の考察,という内容から成っている。

3つの部分が,「資本の一般的分析」である「資本論〔DasKapital〕』のなかで「利子生み資本」という独自の資本を分析の対象としている「利子生み資本論」を構成している。(他の種類の資本についても同様の方法をとっているか?)

以下は略

2.信用制度論は貨幣資本の議論より先に来てはいけないのか

小野さんによる「三宅さんの大谷批判」の要約: 三宅氏にしてみれば,「信用制度について述べるには,そこで貨幣資本がどう動くのかを抜きにして述べることはできない」のである。

三宅さんの原文: 信用制度を「信用制度」として述べ,そのあとで「貨幣資本」について述べるといったことは,そもそもできる事柄ではない

ここでは大谷さんの反論はきわめて論旨明快だ。「マルクスがそうやっているんだからしょうがないじゃん」ということだ。

まず「信用制度」について述べ,次に「貨幣資本」を論じることは「そもそもできる事柄ではない」というが、それならば,第25章部分でのマルクスの叙述は「信用制度」を論じたものではないということになる。
それを積極的に示すべきだ。

以下略

3.第5篇は「信用制度論」ではなく「利子生み資本論」である。

マルクスは第5章の内容を,「利子と企業利得とへの利潤の分裂。利子生み資本。信用制度」と要約している。

三宅氏は,「大谷氏の二つの発言は支離滅裂である」と書いている。それは大谷さんが、「第25章以降を「信用制度論」とすることに批判的にならざるをえない」と主張するからである。

大谷さんはこう説明している。

「5)信用。架空資本」〕は端的に「貨幣資本〔moniedcapital〕論」と呼ぶことができるであろう。かって拙稿で,この部分では「信用制度と信用制度下の利子生み資本の諸形態」が考察されていると述べたが、さらに明確に表現すればそうなる。