高円寺の古本屋で見つけた写真雑誌。
「1億人の昭和史 10 不許可写真史」というものだ。毎日新聞の発行で昭和52年1月の発行日となっている。
著作権に触れる恐れがあるが、このまま廃棄処分となるのも惜しいので、何枚か転載する。クレームがあれば直ちにおろしますので、よろしく。

解説記事から、長めの引用。
従軍慰安婦が初めて生まれたのは昭和13年1月13日か14日とされているが、はっきりした日時は不明である。
ただ第1号慰安所の場所が上海の楊家宅だったことだけははっきりしている。兵站司令部、すなわち軍がそこで売春所を直轄で開業したのである。
では何故こうしたものを設けたのか。それは日本軍将兵が強姦略奪し放題に進撃していったからだ。
…「日本兵の去ったあと処女なし」と言われ、東京裁判では一人の女性を30人で輪姦した証言もある。
…この日本軍の暴行ぶりは上海や年金の外交機関に通報され、海外に打電された。
…これに困惑した軍最高幹部は、軍が管理する清潔な売春婦を与え、“鎮める”ことを考えた。すなわち“従軍慰安婦”である。
…彼女らの大半が朝鮮から強制的に連れてこられた女性であった。
…従軍慰安婦は兵隊40名につき1名の割で配属され、総数は8万余名だった。
…昭和13年4月から軍直営は好ましくないと、すべて御用商人に経営させることになるが、検診と管理はすべて軍が担当した。
慰安所や従軍慰安婦のことは内地には秘密で、彼女たちの存在が分かる記事も写真もすべて検閲で止められた。
…敗戦後、彼女らの大半は現地でボロ屑のように捨てられた。東南アジアでは、いま年老いた幾人かの元従軍慰安婦が、皿洗いや靴磨きをしているのを見ることがある。


慰安婦4
昭和13年1月に開設された軍直営の慰安所。女性は120名いた。数カ月経って、民営に移管された。

慰安婦5

兵站司令部で考えた慰安所規則。

慰安婦6

朝鮮人女性には性病経験者なく健康体が多かったため歓迎された。このため朝鮮半島から強制的に集めてくるようになった。

慰安婦7
昭和12年12月16日 南京城内中山路にて。撮影した特派員は「避難民に紛れ逃亡を企てた約5~6千名の正規兵」と説明をつけている。捕虜の最後がどうなったかは不明。(後ろの方にはYシャツ・ネクタイ姿などどう見ても一般市民という人々がかなりいる)