「ポピュリズム」について 論点の整理

今回、東京へ行った理由は日本AALAの講演会を聞きに行くためである。とくにベネズエラ大使セイコウ・イシカワの講演が主目的である。

講演は二本立てになっており、最初が「ブラジルとペルーの政権交代から」と題する山崎圭一さんの講義。後半がイシカワ大使の講演であった。

山崎さん(横浜国大教授)の講演は1時間でやるようなレベルのものではなく、かなり消化不良感が残った。とくに少ない講義時間の多くがポピュリズム論に費やされたため、聞きたいことが聞けなかったという心残りがある。

ポピュリズム論が世界中で流行っていることはわかった。

ただ、ポピュリズムという概念自体はきわめて多義的で、最低でもトランプ現象やヨーロッパでの政治的激動を分けておかないと、混乱の元になる。

とりあえず、私は以下のように提案したい。

1.19世紀末の米国におけるポピュリスト・パーティーを始源とし、それに影響を受けたラテンアメリカのポプリスモ運動を一括して古典的ポピュリスムと呼ぶ。

2.トランプ現象に象徴される民衆の漠然とした気分・不満を基調とするいくつかの運動をモダン・ポピュリズムと呼ぶ。

3.モダン・ポピュリズムにおいてはファシズムとの異同の吟味が必要である。すなわち、何故それらをファシズムあるいはネオ・ファシズムと呼ばずポピュリズムと呼ばなければならないのか、それを明らかにしていく実証的な検討が必要である。

最後に、水島によるポピュリズムの分類を下に示す。山崎さんが作図したものである。

21世紀の欧州のポピュリズム(右派)

21世紀のラテンアメリカのポピュリズム(中道~左派)

抑圧型

移民排斥

支配的政治・文化・価値観への挑戦

解放型

財政政策の拡充による貧困対策の拡充

社会・経済開発の促進

これを見るとはっきりするのは、ポピュリズムという概念が、政治的にはほとんど無意味だということである。ただたんに見かけ上のスタイルというに過ぎない。

要するに、21世紀型の下からの変革というのは、大なり小なりポピュリスト的手法を取らざるをえないということを言っているにすぎない。
それが間違いだということは、サンダース旋風、イギリス労働党の躍進で確かめられているのではないか。

それにしても、右も左もごっちゃにしてポピュリストと一括する人々の存在こそが、実は一番の問題なのではないか。「おろかな民衆」とそれに迎合し、それを煽る政治家というのなら、おそらくそのような発想からは何も生まれないだろう。
それは知的エリート主義の形をとる保守・現状維持主義であり、その枠組を破ろうとするものへの嫌悪感と恐怖感である。それは知的エリートの知的退廃の告白でしかない。
トランプが勝利した時、サンダースはこう言った。

トランプ大統領に投票した人々は人種差別主義者、性差別主義者、同性愛憎悪者、嘆かわしい人々だと考える人たちがいる。私はそうした考えに同意しない。なぜなら私はトランプ大統領に投票した人々と一緒にいたからだ。

…有権者のほとんどは、右翼的な主張ではなく、進歩的な主張を持っているのだ。

虐げられた人とともにあることは、神とともにあることだ。そのことをサンダースは雄弁に語っていると思う。