この青年哲学者の「失方向」には暗澹とさせられる。
結局、これはポストモダンの共通の特質なのだろうか。「方向感覚」が失われているのだ。
「方向感覚」というのは時間軸を組み込んだ位置感覚、すなわちベクトル感覚だ。だからそれは「時間間隔」、より長い目で言えば「歴史感覚」に裏打ちされている。(2017年02月09日  2016年05月24日 2014年11月17日 を参照されたい)
戦後の時代には進歩と社会主義を目指す共通のベクトルがあった。それがスターリンの専制により無残にも打ち砕かれた。青年たちはそれに幻滅しつつも、ヒューマニズム・人間的自由という言葉を手がかりに、新たな社会を目指しさまざまに模索した。そこには共有する歴史感覚とともに明確なベクトルが存在した。
しかしスターリンなきスターリニスト体制は、その後も害毒を流し続けた。その結果、ついには進歩的オルタナティブをもとめる動きまでもが、スターリニスト亜流として攻撃されるようになった。その先頭に立ったのが未来社会論であり、構造主義であり、変化球としてのハンナ・アーレントである。
口角泡を飛ばす議論ではなく、「ダサい」というより隠微な攻撃が主流となり、ポストモダンの空虚なきらびやかさと、商業主義が青年を幻惑した。しかしそれも間もなく枯渇し飽きられた。(ポストモダンと言ってもお好み焼きのメニューではない。昔から「近代の超克」などと通底する。最近流行りのポスト・トゥルースとも響き合う)
そこに何が登場したか、ハンナ・アーレントを借り、マルクスとハイエクをミキサーに掛けて、結局は体制に寄り添う貧弱なセコハン文化である。ピラミッドの前のラクダのレンタル業者みたいなものだ。
ラクダの背中に敷くカーペットの柄が今様かどうかが彼らの最大の興味だ。
「書を捨てよ、街に出よう」という呼びかけが必要なのかもしれない。だが「書を捨てた若者」が漂流する「街」にそれがあるかどうかは保証できない。「街に出よう」ではなく、愚直ながら「生産点・生活点、ひっくるめて現場におもむけ」という呼びかけが必要なのかもしれない。
「方向感」はそこにあるだろう。だが、とりあえずは「赤旗を読め」だ。