前の記事で、「風の新兵衛」のことを書いたのは、私の視点を整理しておきたかったためである。

何故そんな気になったかというと、東京に行く飛行機のなかでふと、カバンの中に、この間買ったブックレットが入っているのに気づいたからである。

「遊」ブックレット第10号、「現代日本の公共性と全体主義を考える・・・・ハンナ・アレントから」というワンコイン・ブックレットである。

著者は古賀徹さんという人。題名の「拡散ぶり」にうんざりしつつも、「まぁ、あのハンナ・アレントだから読まなきゃならないな」と思い読み始めた。

著書と言っても素人相手の講義の速記録だから、さほど読みにくいわけではない。しかし話題の拡散ぶりは予想通りである。

ハンナ・アレントについては、以前私なりに一応の決着はつけている。ただそれが自由学校「遊」の演題として登場するとなると、立場を再確認しておかなくてはならないと思う。

前にも書いたのだが、ハンナ・アレントの考察の内容と、彼女の政治的立場はある程度分けて考えておかなければならない。

2013年12月22日 2013年12月22日 2013年12月23日 2013年12月24日 2013年12月24日 2013年12月25日 2015年03月28日 

1.ハンナ・アレントの基本的立場…孤高のアリストクラシー

多くの「ハンナ・アレントもの」の紹介本では、意識的にぼかされているが、彼女の政治的立場は何よりも反ボルシェビズムである。

それはスターリン時代の末期に書き起こされ、スターリン批判の時代を通じて書き継がれた。

それは「善意」に包まれた組織が何故に「悪の組織」へと変貌していくかを考察し、その底に「民主主義」→「衆愚主義」という社会の組織形態を探る。

「衆愚」政治がおろかで狂信的な官僚制を熱心に支えることによって、民主主義の反対物へと転化していく、というお定まりの黒神話である。

おそらく彼女はナチの政権獲得を念頭に置いているのであろうが、そのような「瓢箪から駒」みたいな全体主義ではなく、ナチズムのもっと意図的で組織的な形態として、完成形としてボルシェビズムを描き出すことになる。

これだけでは反共・反民主のウルトラ右翼思想になってしまうので、民主主義という思想のパラダイム変換へと進んでいく。

それから先はとりあえず保留しておくことにするが、とにかく彼女がリベラルな思想の持ち主でないことは確かであり、リベラル派が学ぶべき対象でもない。

どうしてこのような思想が、リベラル派の議論の中に何度も何度も持ち込まれてくるのか、不思議でならない。

2.演者はのっけから挑発する

私がこの講演を聞いていたら、憤然として席を立ったかもしれない。

少し紹介しておく。

「足元から作り出す民主主義」という講座全体のテーマは、ちょっと古風というか、札幌らしいと思います。

札幌は、私が住んでいた20年くらい前ですら、本州の思想状況から15年くらい遅れていると言われていて、そもそも思想的に古風な土地柄でした。

2014年の今日ですら、このテーマから、戦後民主主義の息吹のようなものを依然として感じてしまうわけです。

たしかに講義風景の写真を見ると、受講者はジジイばかりだ。ジジイがジジイと呼ばれても腹は立たないが、このように上から目線でせせら笑われると、猛然とアドレナリンが吹き出してくる。

立場の違いだろうが、我々からすれば、ハンナ・アレントの本質は民主主義と民主主義のために闘う人々への「あざけり」にあるということが、これほどまでに鮮やかに示されたシーンは、滅多にないのではないだろうかと思う。

しかもそう嘲っている本人が、嘲っているという意識なしというのも、いかにもの話だ。
実は我々は学生時代に「戦後民主主義は虚妄だ」と主張する全共闘諸君と論争したことがあり、ずいぶん勉強したものだ。ひたすら「戦後」から「戦前」へと後ずさりしている人から「遅れている」と言われる筋合いはない。

3.あまりに粗雑な「哲学者」

本題は次のようにして始まる。

民主主義の反対は何かというと、さしあたり全体主義だと思います。戦後民主主義は民主主義=善、全体主義=悪としてきた。アレントによればこういう図式は成立しない。

書いてみれば分かるように、「戦後民主主義は民主主義=善、全体主義=悪としてきた」というセンテンスがまったく余分なのだ。

非常に印象操作的な言い方で、アレントが民主主義vs全体主義という図式が成立しないと言っているようにも聞こえるし、民主主義=善、全体主義=悪という図式が成立しないと言っているようにも聞こえるのだ。

しかも「民主主義vs全体主義」という図式は、演者が勝手に仮設しただけのものだ。

つまり演者は肝心なことは一言も喋らずに、戦後民主主義という民主主義を勝手に持ちこんで、それをアレントを口実に俎上に載せたことになる。

ここまでのこの人の心情は、戦後民主主義へのあざけりで一貫しており、まともに批判しようとする気配も、まして評価しようという気配もまったく感じられない。

4.民主主義の反対は、普通は「全体主義」とは言わない

我々が民主主義について学ぶ場合、「民主主義」というのは人類社会の進歩の中で登場した歴史的枠組みだ。

階級社会が誕生して以来、すべての社会は基本的には非民主的だった。皇帝をいただく大国も、諸侯の乱立する戦国社会も、非民主的である点においては共通していた。

ロックの思想的展開、フランス大革命などを通じて、「自由・平等・博愛」の精神が社会の全構成員に承認され、初めて民主国家が成立した。

こうして階級は依然として存在するが、法の下の平等と個人の自由が尊重されるという特殊な、過渡期的性格を帯びた資本主義社会というものが出来上がり、今我々はそういう社会のもとに暮らしていることになる。

これが教科書的な民主主義の内容だ。

したがって、この社会は生まれたばかりの民主主義をめぐり、絶えまない緊張を孕みながら推移している。歴史的概念としての「全体主義」は非民主社会へ引き戻そうと絶えず生まれる逆流の一形態だ。
これが大掴みな民主主義の把握である。

これに対し、「全体主義」の概念は今のところ流動的であり、多分に恣意的に用いられる。社会科学の対象とするには漠然としているのではないだろうか。
我々が「全体主義」と言われてまず思い浮かぶのはファシズム独裁だ。しかしその他にも非民主的な社会形態は様々にある。スターリンの恐怖・専制社会(アレントはこれも全体主義という)、サウジアラビアのような時代錯誤的な専制、北朝鮮のような支配者の神格化その他もろもろだ。

これらを当然の前提とする「老いぼれ聴衆」たちに対して、「さしあたり全体主義」とする演者の軽さが苦々しい。「とりあえずビール」とは次元が違うのである。

5.だったら言うなよ!

演者の「軽さ」は度を越している。

民主主義の反対はさしあたり全体主義だと言っておきながら、すぐその後に「この図式は必ずしも成立しない」と平気で喋る。

だったら言うなよ!
我々のだれも、「民主主義の反対はさしあたり全体主義だ」とは思っていないんだから。
6.もっと民主主義の中身を語れ

演者が想定する民主主義は、たんなる「手続き民主主義」にすぎない。そもそも民主主義というのは「形式」において語るようなものではない。
民主主義とは第一に、自由・平等・博愛を旨とし、人権の無差別性を主張する思想である。第二に、それは人類がついに社会の盲目性を脱却しそれをコントロールするために獲得したツールである。日本人は第二次大戦後の悲惨な状況の中でそれを知り、熱狂的に歓迎した。絶対主義天皇制と軍部の愚劣さを骨身に感じた日本人の目に、民主主義の理想はまばゆいほどに輝いていたのである。
7.「一億総懺悔」への後ずさり

このあと恐ろしくなるほどの戦後民主主義への悪口雑言が並べ立てられる。
もはやコメントする気もしないので、大意の引用だけしておく。
(過ぐる大戦は)独裁者が人々に無理やり強制したという全体主義理解がいまだに信じられています。抵抗する人たちを投獄し、一般の人達を徴兵して悲劇が生じたという戦後民主主義の図式です。
しかしこれは一般大衆を戦犯から除外して免罪する政治的意図によって築かれたものです。その上に戦後民主主義が乗っかった。だから戦後民主主義は徹底的に自己検証することがなかった。
ということで、「一般大衆=戦犯」論とも言うべきトンデモ論が展開される。
思うに、いまの人達は戦後史をまともに勉強していないようだ。
戦後いち早く、政府は一億総懺悔論を出して保身(とくに天皇の)を図った。「みんな悪かったんだ、誰が悪いというわけではなかったんだ」という理屈で居座りを図った。それに対してGHQが真っ向から攻撃して、戦犯を公職から追放した。これに力づけられて、国民の間からも真相究明、戦争責任追及の声が上がった。これが「戦後民主化」である。
しかし冷戦が始まってロイヤル陸軍長官が反共声明を出すと、その声はしぼんでいった。三鷹・松川などの謀略事件が相次ぎ、レッドパージが断行され、共産党が非合法化され、いっぽうで戦犯が次々と復活する。こうして戦後民主化は挫折したかに見えた。
しかしその後の逆コースを日本の国民はある程度は阻止した。そして曲がりなりにも平和国家日本を作り上げてきたのである。これがもう一つの「戦後民主主義」である。我々にとっての戦後民主主義はストックホルム・アピールであり、原水爆禁止であり、砂川であり、勤評であり、安保であった。
最低でもこの2つは分けて論じてほしい。そしてそれらは「虚妄」ではなく歴史的「事実」であったことを認めてほしい。そしてそれは「国民総懺悔イニシアチブ」の拒否から始まったということを認識してほしいのだ。
8.解同思想への横滑り
演者は、さらに「一般民衆も戦犯」論を進めて「排除」の論理を持ち出す。「体制の敵」作りこそが全体主義の本質だというのだ。
演者はそれをクラスのいじめやハンセン病患者の隔離へと結びつけている。それらはいずれも大事な問題ではあるが、ファシズムの階級的本質や独占資本との関係はそこでは捨象されてしまう。
「差別」こそが支配の本質であるとし、人々の「差別意識」をえぐり出すことで物言えぬ雰囲気を作り出し、それによってなにがしかの利権にありつこうとする解同集団の論理に接近する。
ただし、この辺になると論旨がふらついてきて、一体何をいいたいのかわからなくなってくる。

まだまだ「戦後民主主義」への漫罵は続くが、辛抱して読んで下さい。最後の質疑応答が面白い。

ジジイどもが慎み深く逆襲している。「遅れているのはあなたじゃないんですか?」と