1866年
6月はじめの両軍の布陣
幕府は第一次の時と同じく15万の兵を招集した。それに対し、長州の兵力は4500。
石州では、長州1千人に対して幕府3万。芸州(小瀬川口)では、長州2千人に対し幕府5万。大島でも長州500人ほどに対して幕府は2千人。小倉では、長州1千人に対し幕府2万人だった。(佐賀藩は開戦前より出兵を拒否)
6月5日 幕府軍が長州軍に対し宣戦布告。
6月7日 幕府の軍艦「富士山丸」の周防大島への砲撃が始まる。
6月8日 松山藩兵と幕府軍陸兵部隊が大島に上陸。長州軍は大島をいったん放棄。
6月12日 下関の高杉は、丙寅(へいいん)丸に乗り込み、大島に夜襲をかける。
6月13日 幕府軍の先鋒となる彦根藩部隊が国境に到達。本来先鋒を務めるべき広島藩はこれを辞退していた。

芸州口

山口県ホームページより

広島から来た山陽道は、小方で二つのルートに分かれます。苦の坂口(中津原口)と大竹口です。一つは旧山陽道で、苦の坂を越えて木野村の中津原から小瀬村へ船で渡り関戸を越えて山中を行く道です。もう一つは海岸ルートで、油見・大竹を経て小瀬川下流を渡り和木村から新港を通って岩国に到るものです。征長軍は、大竹口を追手(大手)と定め、彦根井伊家の軍勢を配置。苦の坂口を搦め手とし、越後高田榊原家の軍勢が配置された。

6月14日 芸州口から侵入した彦根藩部隊が小瀬川で長州軍狙撃隊の待ち伏せ攻撃を受け潰走。後続の与板藩兵も撤退する。

6月14日 苦の坂を進んだ高田藩1千の部隊が長州軍の奇襲を受け撤退。そのまま戦線を離脱。
6月15日 第二奇兵隊・浩武隊が大島に上陸奪回s苦戦を開始。
6月16日 長州軍、反攻作戦の開始を決定。
6月16日 長州藩の軍艦が対岸に夜襲をかける。高杉の丙寅丸が田野浦、乙丑(いっちゅう)丸が門司浦を攻撃。乙丑丸には坂本龍馬も乗り込んでいた。
6月16日 石州部隊は盟約に基づき津和野藩を無害通過、一気に浜田藩に入る。
6月17日 高杉軍、門司に渡海攻撃。砲台を破壊して引き揚げる。
6月17日 大島の幕府軍は撤退。長州軍の第二奇兵隊が大島を奪回。
6月18日 益田の銃撃戦。福山藩兵が抵抗するが、圧倒的な火力差の前に敗退。
6月19日 芸州口では彦根藩に代わり前線に出た紀州軍と長州軍との激戦となる。
6月22日 芸州口の長州軍が大野に向け進軍開始。その後決着がつかないまま、にらみ合い状態にはいる。広島藩は長州藩と休戦協定を結び、中立の立場をとる。

7月3日 長州軍、門司に上陸した後、大里(だいり)の小倉藩基地を襲撃。他藩は攻撃に対応せず、小倉藩は孤立。長州軍は大里制圧に成功するが、かなりの犠牲を出したため、ふたたび撤退。
7月15日 益田から浜田に向かう長州軍を紀州藩が迎え撃つ。銃撃戦の末、装備に劣る紀州藩部隊は壊滅。
7月17日 鳥取藩、松江藩が浜田から兵を撤退させる。
7月18日 浜田藩主は城に火を放って松江へと逃亡。

7月20日 徳川家茂が大阪城内で死去。一橋慶喜が将軍職を預かる。慶喜は自ら出陣して巻き返すと宣言。
7月27日 石州部隊を加えた長州軍は、本格的な上陸作戦を開始。800名の兵が大里に結集。その後海側部隊と山側部隊に分かれ小倉を目指す。
7月27日 小倉平野への最後の関門の赤坂口で肥後藩兵と衝突。長州軍は4波にわたる攻撃がことごとく失敗。大きな被害を蒙る。海からの艦砲射撃もあり、長州軍はいったん大里まで下がる。
7月28日 熊本軍、小笠原総督と衝突し、兵を引き揚げる。これを知った久留米藩や柳河藩も一斉に撤兵・帰国。

7月29日 家茂死去の報を受けた小笠原総督は戦線を離脱。富士山丸に乗り大阪に引き揚げる。
8月1日 小倉藩は小倉城に火を放ち、南東部の山岳地帯香春(かわら)に退却。その後半年にわたりゲリラ戦を続ける。
8月4日 小倉城陥落の報を受けた慶喜は休戦に動く。

8月21日 家茂の病死を理由に休戦の勅命が下る。長州戦争の終結。
9月2日 慶喜の意を受けた勝海舟が宮島で長州と会談。停戦合意が成立する。小倉藩との戦闘は翌年はじめまで続く。