第一次長州征討作戦が総督の優柔不断によって流産に終わった後、1965年~66年の間はじれったいような日々が続く。江戸表がどう動いたか、慶喜・容保ラインがどう動いたか、朝廷がどう動いたか、薩摩がどう動いたか、個々の動きは事細かくわかっているが、全体の流れが見えないのである。
百人の歴史家や評論家が百の意見を持ち出すから、知れば知るほど混迷に陥るのである。
とにかく慶喜という蝶がひらひら舞うので、目障りだ。
この部分は第二次長州討伐をめぐる動き以外はすべて捨象して眺めることにする。そのことで権力抗争の骨組みが見えてくる。

1965年(慶応元年)
2月7日 薩摩藩、公武合体論から朝廷のもとでの雄藩連合政権論に転換。大久保、小松が上京し、朝廷側近と相次いで会談。長州藩降伏条件のうち、藩主父子及び五卿の江戸拘引を猶予することを提案。
3月2日 朝廷より幕府に薩摩提案に沿った「お沙汰書」が渡る。
3月16日 諸隊が藩軍として承認される。
3月22日 幕府大目付が大阪に入り、諸藩に毛利父子の江戸勾引をもとめる。広島藩、宇和島藩、大洲藩、龍野藩は協力を断わる。
4月1日 江戸幕府、藩主父子の江戸拘引が行われない場合は将軍が進発すると諸藩へ伝達。尾張藩前藩主の徳川茂徳を先手総督、紀州藩を副総督に任命。
5月13日 桂小五郎が長州に戻り、国政顧問となる。村田蔵六が中心となり近代方式軍隊の編成を開始。
諸隊を整理統合し10隊(奇兵隊・第二奇兵隊・遊撃隊・御楯隊など)編成とする。総督-軍監-小隊長-兵士の位階制度に統一。藩の主力部隊とする。
閏5月16日 将軍家茂は江戸を出発し25日には大阪城に入る。大阪より藩主の来阪を命じるが、長州藩は病気を理由に謝絶。
閏5月16日 将軍家茂は京に入り、長州征討の趣旨を奏上。朝廷は即時進攻を裁可せず。
8月 坂本龍馬の斡旋により、井上・伊藤が長崎でグラバーと面会。薩摩藩の名義でミニエー銃4,300挺、ゲーベル銃3,000挺を購入。
8月18日 大阪の家茂将軍がふたたび長州に督促、本人が病気なら嫡子も可と条件を下げるが、長州はこれも拒否。
9月21日 家茂が京に入り、朝議にて再征勅許を得る。
11月20日 国泰寺で長州藩の使節と幕府側の会談。
12月7日 幕府、31藩に長州征伐の出兵を命じる。

1866年(慶応2年)
1月21日 薩長同盟が結ばれる。薩摩藩代人の坂本竜馬と、長州藩代人の中岡慎太郎(共に土佐藩脱藩)が仲立ちする。
2月7日 幕府老中の小笠原長行が広島に到着。召喚命令を発する。長州藩はこれを拒絶。
3月26日 幕府、改めて長州藩主父子・重臣に広島に出頭するよう命令。
4月14日 大久保利通、薩摩藩は第二次長州討伐への出兵を拒否すると表明。幕府軍の攻め口の一つである萩口は担当藩であった薩摩の撤退により消滅する

なかなか脱がないストリップ嬢の趣である。「太閤は10斗の米を買いかねて、今日も五斗買い(御渡海)明日も五斗買い」という戯れ歌も思い起こさせる。
最後は仕方なくて始めた戦争という感じだ。国泰寺の会議を傍聴した近藤勇も「これじゃ、やったって勝ち目はない。何処かで手打ちするしかないんじゃない?」と報告しているらしい。
幕府はそこまで追い込まれていたのである。