1863年

京都では、尊王攘夷運動がピークを迎える。各地で農民一揆や都市騒擾が多発。幕藩意識が急速に解体。

5月10日 「攘夷決行の日」を機に、長州藩が馬関海峡を封鎖。アメリカ商船を砲撃する。


7月8日 薩英戦争。生麦事件の補償をもとめる英艦隊が鹿児島を攻撃。薩摩は甚大な被害を出しつつも撃退に成功。力の差を痛感した薩摩は、その後イギリスと修好を結び技術導入を進める。

8月18日(新暦では9月30日) 「八月十八日の政変」が起こる。孝明天皇の意を受けた会津藩と薩摩藩が長州藩及び三条実美ら尊攘派公家(五卿)を京都から追放する。

1864年(元治元年)

6月 池田屋事件。攘夷派志士多数が殺害捕縛される。
7月19日(新暦では8月20日) 蛤御門の変(禁門の変)。会津藩・薩摩藩との衝突で約3万戸が焼失。(この蜂起に対して、桂小五郎、周布政之助、高杉晋作、久坂玄瑞らは慎重論を唱えたと言われる)

7月23日 朝廷、幕府へ対して長州藩主、毛利敬親への追討の勅命を発す。
7月 幕府は尾張藩・越前藩および西国諸藩よりなる征長軍(35藩、総勢15万人)を編成する。征長総督は尾張藩、副総督は越前藩が務める。

7月27日 三田尻(現防府)で毛利藩幹部会議。藩主父子、三支藩藩主、老臣が善後策を協議する。岩国藩の吉川経幹に対外交渉を集中させる。

8月5日 イギリスを中心とする連合国艦隊17隻が下関の砲台を破壊。この後長州藩は武力での攘夷を放棄。海外技術を積極的に導入し軍を近代化する。

8月13日 幕府の戦略が決定。五道(芸州口、石州口、大島口、小倉口、萩口)より藩主父子のいる山口を目指すこととなる。

9月06日 吉川経幹が山口に入る。奇兵隊ら正義派は幕府への武備恭順を迫る。これに対し萩側(俗論派)は謝罪恭順を主張。

9月25日 山口で君前会議。藩主敬親は武備恭順を国是とすると言明。

9月25日 会議終了後に俗論派が君主派要人を襲撃。藩論をひっくり返す。

井上馨(聞多)は襲撃により重傷。その後の弾圧により周布は自殺、清水親知(清太郎)も蟄居となる。俗論派は藩主を取り込む。

9月30日 薩摩藩の密使が岩国に入り、岩国藩(支藩)と交渉開始。

10月15日 奇兵隊を含む諸隊(750人)が山口より長府に移動。五卿を奉じて立てこもる。(五卿は長府の功山寺に逗留していた)

10月21日 薩摩藩(密使)は長州藩の所領安堵のために尽力すると書状で意思表明。独自の降伏条件を示す。

10月22日 大阪城に各軍指導部が集結し軍議を開催。広島の国泰寺に総督府、豊前の小倉城に副総督府を置く。18日に五道より攻撃を開始することとなる。

10月24日 薩摩藩の軍代表、西郷隆盛が総督の尾張藩主徳川慶勝と会談。薩摩藩の和平案を提示する。慶勝はこの提案を受け入れ、西郷を全軍の参謀格に据える。(これにより幕府の戦争突入戦略は事実上反故にされた)

10月24日 高杉晋作が萩より脱走。福岡に潜伏。

11月04日 征長総督の命を受けた西郷が岩国に入る。岩国藩主の吉川経幹と会談。三家老切腹、四参謀斬首、五卿の追放で合意。直ちに執行される。

11月16日 岩国藩主が三家老の首を持参し国泰寺に出頭。事情を知らない幕府大目付は強硬な立場で臨んだが、西郷のとりなしで妥協に応じたとされる。(この辺はかなり眉唾)

11月18日 国泰寺の総督府、山口城破却と五卿追放で矛を収める。小倉の副総督府(越前藩)はこの妥協に不満を表明。

11月23日 西郷、国泰寺から小倉に赴き副総督府を説得。

11月25日 高杉が長府に潜入。諸隊に危機感を煽り挙兵を説く。

12月1日 薩摩藩の密使が五卿と面接。九州の五藩による身柄預かりを提示。五卿側は奇兵隊などとともに戦う姿勢を見せ抵抗。

12月08日 奇兵隊総督の赤禰武人、萩派の説得を受け恭順策を提起。軍監の山縣有朋はこれを拒否。

12月11日 西郷、小倉より長府に赴き諸隊(奇兵隊、遊撃隊、御楯隊など)の慰撫を図る。奇兵隊はこれに応じるが、高杉晋作は反対した。

12月15日 高杉が長府で挙兵。元治の内乱が始まる。力士隊(総督は伊藤俊輔)、遊撃隊(総督は石川小五郎)がこれに従う。間もなく奇兵隊も合流。赤禰は隊を離脱する。

12月27日 征長軍の徳川慶勝総督は解兵令を発する。幕府は不満を表明したが、解兵後のためそれ以上の手立ては取れず。

1865年(元治2年→慶応元年)

1月6日 萩の討伐軍と諸隊が大田街道沿いで激突。

1月16日 10日間にわたる戦闘の末、討伐隊は進撃を断念する。 

1月23日 藩内中立派の斡旋により停戦協定が成立。討伐軍は撤退する。

2月10日 俗論派が中立派要人を暗殺。諸隊の犯行とでっち上げるが、逆に藩内で孤立。

2月14日 俗論派の首領、椋梨藤太が捕縛され、藩は諸隊支配のもとにおかれる。

京都では孝明天皇の信任を得た徳川慶喜(禁裏御守衛総督)、松平容保(京都守護職)、松平定敬(京都所司代・容保の実弟で桑名藩主)のトロイカ体制が権力を握る。江戸の幕閣の意向には全面的に従わず独自の行政を行う。

第二次征長論が幕府と朝廷のあいだで進む。大久保は「至当の筋を得、天下万民ごもっとも」の義を求める。「非義の勅命は勅命に非ず」とし作戦に反対。