またもしつこく、古代史の時代区分についての批判と自説展開。(先史時代についての話なので「古代史」は不正確です)

トムソン区分への敬意を払え

西洋史では石器時代→青銅器時代→鉄器時代である。何故この時代区分が日本史では用いられないかというと、実用面からの理由であろうと思う。つまり青銅器時代が短すぎるからである。

ただそれにしても、世界的な基準への敬意がなさすぎる。さらに言えば、弥生時代というククリはすでに完全に破綻している。前期と後期はまったく社会の構成が異なっている。少なくとも青銅器時代と鉄器時代には分けるべきである。もう一つ、この「長すぎる弥生」に固執する意味がつぎの「古墳時代」への序章になっているとするならば、それはまさしく「皇国史観」そのものだ。

朝鮮の史学は吐き気がするほどのイデオロギー偏重で、学ぶ気が起きないが、それでもトムソン区分を受け入れているところは正しい。日本の考古学や史学は、この点だけで、朝鮮史学の後塵を拝している。


東洋では青銅器時代が短い

理由は青銅器も鉄器も中東からの輸入であり、青銅器と鉄器がほとんど間を置かずに入ってきたからである。
紀元前3千年ころにシルクロードを経由して青銅器が入り、その500年ほど後に同じルートで鉄が入ってきた。つまり中東が1500年をかけて青銅器から鉄器への移行を果たしたのに対して、中国はそれを3分の1の期間で済ませてしまったのである。

ところが日本では様相が異なる。
長江人は中国北部に青銅器が入った後も、なおしばらくは石器時代のままであった。青銅器文明が四川省を中心に花を咲かせた頃、中国北部ではすでに鉄器時代に突入していた。
鉄器はおろか青銅器さえ十分に持たないまま、長江下流の民は山東半島→朝鮮半島を経て日本にやってきたのである。

強力な鉄器を持つ中国北方の民が朝鮮半島に進出し日本に影響をあたえるのは紀元前200ないし100年頃、漢が楽浪郡を創設する前後のことだ。
したがって晩期縄文時代との並立期をふくみつつ、日本の青銅器時代は紀元前7世紀ころに始まり、九州北部では紀元前後、その他の地域では銅鐸文明が圧殺される西暦200年ころまで続いたと考えられる。この800年ほどの期間、弥生時代のほぼすべてをふくむ時代を青銅器時代と呼ぶのはきわめて自然だと思う。それは銅鐸の時代と完全に重なる。

銅鐸の時代は、西日本で長江人と縄文人のミックスが進み「日本人」が生まれる過程でもある。そして紀元前後から進出した半島の北方人が鉄製武器により支配の手を伸ばしていく時期でもある。
鳥取の二つの遺跡はその過程を鮮やかに示している。

前方後円墳の意味

さてこの青銅器に続く時代であるが、基本的には稲作のフロンティアを拡大していく過程である。そして大和朝廷の全国支配の達成を一つの区切りとして有史時代へと移行していく。
この間に九州北部の倭王朝は没落し、「同盟」関係にあった任那は新羅と百済の支配下に降り、半島とのつながりは絶たれた。

大和の天孫系集団は「日本人」と同化し、ここに“単一民族国家”としての「日本」が登場する。この後、北方のエミシ(縄文人)は大和朝廷との闘いに敗れ同化していくが、北海道に渡った(戻った?)エミシは現地の後期縄文人と結び、オホーツク人を征服しつつ、縄文の文化的・言語的アイデンティティを守ることになるが、それは「別史」である。

そういう時代を「古墳時代」と名付けるのは正しいとはいえない。正しくなくても「弥生」は極めて無意味な命名だから実害はないが、古墳時代は時代に誤った印象を与える有害な命名であるから止めたほうがいい。せめて「土師器・須恵器時代」のほうがまだいい。

なぜなら古墳(前方後円墳)は文化の中心性の象徴ではなく、フロンティア性の証だからである。それは時々の水田耕作の前線に沿って形成されている。沼沢地帯が大規模工事によって水田と化していく過程でそれらは形成され、水田開発が終わると大規模古墳のブームは廃れ、さらに東へ北へと移動していくのである。

地図を見れば分かるように、それは吉備古墳群(児島湾の干拓)、大和古墳群(大和湖の干拓)、河内古墳群(河内湖の干拓)、さきたま古墳群(関東平野の干拓)と続き、宮城北部古川の水田開発をもって時代を終えるのである。詳しくは知らないが濃尾平野や中越平野でも同様なできごとがあったのではないだろうか。

干拓を終えた後には整然と区画された美田が広がり、人が張り付いただろう、米作というのはとにかくめちゃくちゃに労働力を必要とする商売だから、人口は急速に増えたであろう。そしてそれぞれが強国となっていっただろう。
これが日本の政治・経済の重心を九州北部から東に向かって移動させたことは疑いない。それを考古学的に象徴するものは何か。それを私は問うているのだ。