韓国の民主・進歩運動の中には、80年代学生運動の潮流が今もなお受け継がれている。

それらの運動の中でNLとPDという2大潮流があった。これからは主要な対立ではなくなっていくのだろうが、それでも折にふれて顔を覗かせるので、知識としては憶えておかなくてはならない。
(ただし、この問題については個々人の古傷に触れることにもなりかねないので、人前でひけらかすような真似はしないほうが良い)

1.「民族解放・人民民主主義革命」論への流れ

1980年代、光州事件以降、学生運動の中に「民族解放派」が広がる。“National Liberation People's Democracy Revolution”の頭文字をとってNLと呼ばれる。

85年末、「科学的学生運動」を唱導した高麗大・ソウル大グループが、「民族解放・人民民主主義革命」を標榜し、急速に全国に勢力を拡大した。

「民族解放・人民民主主義革命」は基本的視点としては日本共産党の60年綱領(旧綱領)の骨子と似通ったところがある。

韓国社会はアメリカ帝国主義の半植民地であり、同時に半資本主義でもあると評価し、当面する革命の性格を民族解放の性格を持つ闘いと規定する。

そこでは植民地半封建社会論と植民地半資本社論が対となった植民地半資本主義論」が土台となっている。しかしこの課題は十分には展開されない。とくに60年後半からの高度成長で、離陸を遂げた韓国経済への評価が蓄積されていない。

アメリカの半植民地とする評価はこれまでの闘いの中から学生たちの共通認識となってきた。それはすでに60年代学生運動にも表されていたが、70年代の反朴政権、民生学連の闘いの中で次第に明らかになった。

そして光州民主化運動への武力弾圧をアメリカが黙認したことから、反米なくして解放なしの声が一気に広がった。これが「民族解放・人民民主主義革命」論に結びついていく。

この新しい潮流は韓国民主運動にとって画期的な意味を持っていた。それはいままでの反軍事独裁、民主化という即自的受け身な対応から、運動全体を革命運動と捉えていく能動的姿勢への転換である。

しかし、この路線は二つの問題を内包していた。

一つは科学的社会主義の軽視である。軽視というより無知であると言わなければならないかも知れない。科学的社会主義に関する文献は制限され入手困難であった。したがって目の前の社会矛盾を解明し、その因って来るところを分析する視角が不足していた。だからすべてを反米の路線に流し込むきらいがあった。

民族解放派は、半植民地・半資本主義という韓国の特殊な状況においては、民族矛盾が階級矛盾に優先するとみなし、学生運動と変革運動の焦点を反米主義と南北問題に集中させた。

レーニンの「帝国主義論」を除けば、科学的社会主義の理論とはかなり縁が遠い思考であった。(韓国版ウィキより)

もう一つは革命の「戦略」に関わる問題である。これにはおそらく75年のサイゴン解放、南北ベトナムの統一という世界史的事件が関係したであろう。これにより民族の悲願である「南北統一」の課題が、革命戦略の中に無媒介的に組み込まれてしまう。

その悲劇的表現が「主体思想」である。

2.NL・PD論争

NLは「自主・民主・統一」(ジャミントン)という大衆組織を立ち上げる。共産党が民青を、革共同が社学同を立ち上げたようなものだ。学生自治会の組織が続き、全大協と韓総連が結成された。さらに社会各方面までふくむ汎民連も結成される。

これに対し、「人民民主派」(PD)が対抗馬として登場した。PDは資本家と労働者の階級矛盾を強調し、マルクス主義の伝統に忠実にしようと考えるグループである。NLが自主派、PDが平等派と呼ばれることもある。

NLは単一の指導理念に基づいて、統一された中央集権的な組織を形成しているが、PDは本来単一政派はなく、いくつかの政派が独立して形成されたものである。組織的にも分立されている。

彼らは韓国社会を「独占資本主義段階にある新植民地主義国家」と規定した。また光州民主化運動についてはまずもって民衆の蜂起と見て、韓国労働者階級の闘いの幕開けと評価した。(韓国版ウィキ)

ようするに評価の視角がまったく異なっているから、議論はすれ違う可能性がある。PDは階級的視点からNLを批判し続けたが、所詮は批判者であって、それが両者の力関係を覆すには至らなかった。

この論争は韓国が抱える問題を、萌芽的には網羅していただけに、いまだに組み尽くすことの出来ない教訓をふくんでいる。ただ時代的制約もあり、両者の問題意識はやや図式的である。

権威主義的工業化の過程で発生した強力な反共権威主義国家にどう立ち向かうかという視点が不十分である。これらの新たな問題を民族と労働者階級の両方の視点で再度検討しなければならないであろう。(崔章集

3.主体思想派

これについては話し始めるとキリがないのだが、要点だけ触れておこう。

主体思想は北朝鮮の国家理念であり、朝鮮労働党の指導理念でもある。

主体思想がNL派の中に最初に持ち込まれたのは、民主化の始まる直前、1986年のことである。金永煥(ヨンファン)が「鋼鉄通信」という文書シリーズを次々と発表し、「首領論」、「品性論」などの主体思想を大学街や労働界に広げた。

NL派の多くはこれに影響を受け「主体思想派」に変わっていく。韓国版ウィキは簡潔に経過を書き記している。

主体思想派は自生的な親北主義者で、北朝鮮の短波放送を密かに聞くことによって、その情勢分析と理論を受容した。

金永煥は自ら民主革命党(ミンヒョクダン)を組織し、北朝鮮の指導を受け、韓国の進歩運動に介入した。

1995年頃からは、学生運動の全体的な衰退と北朝鮮の実状認識、主体思想の創設者である黄長の亡命などで徐々に力を失った。

しかしいまも、もっとも厳しい時期を経験した不屈の闘士たちは健在である。民主革命党の流れをくむ集団は東部連合、蔚山連合の活動家集団などに影響を与えていると言われる。

なおNLの全部が主体思想派に移動したわけではなく、一部は「民族民主革命論」(ND)を主張し、別グループを形成した。彼らは「民族解放左派」を自称したらしいが、その後の経過は不明である。

3.NLのフロント組織

NLイコール主体思想派と断定するには躊躇を覚える。また87年民主化以降は非公然中核組織とフロント組織という分類も意味がなくなりつつあるが、存在そのものが違法とされる主体思想派にとっては、まだこういう色分けも必要であろう。

フロント組織は次々と登場しては消えていく。憶える必要もないが、一応名前はあげておこう。

まず89年1月に全国民族民主運動連合(全民連)が結成された。これは当局の厳しい弾圧により間もなく消滅した。

ついで91年末には、全民連を再建する形で民主主義民族統一全国連合 (全国連合)が発足した。NLが指導する在野運動勢力14団体のアンブレラ組織である。

97年、民革党事件を機に「全国連合」は公然活動を停止し、事実上の解散に追い込まれた。

2007年、NLは全国連合を解消し、あらたに「韓国進歩連帯」を結成した。韓米FTA阻止、非正規職撤廃、平和協定の締結と駐韓米軍撤収、国家保安法撤廃など4大課題を掲げているが、南北統一の課題は避けられている。

いっぽう、NL活動家の多くは、民主労総が中心となって結成された合法政党「民主労働党」に集団入党した。彼らは組織的力量にものを言わせ民主労働党の多数派となった。

民主労働党の流れは統合進歩党へと続いたが、現在では統合進歩党そのものが消滅している。

これに対し、PDは単一組織としてのまとまりは強力ではないが、今日その主力は労働党に結集しているとみられる。

民主労働党が結成されたとき、PDの多くはこれに結集しPD派を形成した。2008年には民労党から分かれ「進歩新党」を結成した。12年には総選挙での得票率が規定に届かず解散、翌年「労働党」として再発足した。

その間、多くの活動家がリベラル派の正義党に鞍替えしている。



97年9月、初めて韓国を訪れたとき、まだ韓総連は元気だった。街頭で機動隊と「激突」していた。

その2年後に梅香里を訪れたとき、団結小屋には機動隊から奪ったヘルメットや盾などの「戦利品」がうず高く積まれていたが、すでにそれは過去のものだった。

「民革党事件」以来、NLはおとなしくなった。しかしその残党は民労党内に潜り込んで多数派を形成していたのである。

それやこれやも、ここ10年位ですっかりおとなしくなった。パククネを大統領の座から追い落としたとしても、国家保安院の牙城はいささかも揺らいではいない。

かえすがえすも、「主体思想」がいかに韓国の民主運動に暗い影を落としたか、その戦闘性を知るだけに悔やまれてならない。


もう一度1985年の時点に立って、問題点をおさらいすることも必要かと思う。そんな思いもふくめながら、この文章を書いてみた。
下記もご参照ください

「北」の影響:カンチョル・グループの場合
(付)韓総連の自己紹介
韓国の労働運動(1998年)