「7月3日体制」下のエジプト

シリーズ「混迷する中東・北アフリカ諸国」の5回目。今回は長沢栄治さんの執筆である。2015年初頭の頃の文章で、新しいといえば新しいが、すでにそれから2年余りが流れており、すでに現状とのあいだに若干の違いは出てきているかもしれない。

 

はじめに

(この「はじめに」がえらく長い)

2011 年 1 月 25 日にタハリール広場での大集会が行われ、2月11日にはムバラク大統領を宮殿から退去させた。

それから約1年半後の2013年6月に民衆は再び蜂起し、ムルシー大統領とムスリム同胞団の政権を打倒した。

それで、蜂起に立ち上がった人々が望んだ「革命」は進展しているのか。革命などといっても一時の興奮に過ぎず、混乱をもたらしただけで何の結果も残さなかったのか。

長沢さんはいくつかの判断材料を提出する。

①ムバラクの逆転無罪判決

2012年6月、ムバラクはデモ隊への発砲による殺害の罪での無期懲役判決を受けていた。

2013年1月に再審理が決定され、2014年11月にムバーラク元大統領に無罪判決が出された。抗議の声は押しつぶされた。

②軍部による統治の「正常化」

2014年6月、「6月30日革命」を唱えるシーシーが大統領に就任した。

表面的に見る限り、シーシー大統領は国民の政府に対する信頼を回復し、安定した「統治」に成功している。

スンナ派を指導するアズハル機構と、人口の10%以上を占めるコプト派の政権支持には強固なものがある。

③ムスリム同胞団への怒り

一方、ムスリム同胞団は国民の指弾の的となっている。ムルフィ政権下のコプト派教徒襲撃や、シーア派住民殺害などの非道行為、経済危機を強権で乗り切ろうとしたことへの恨みは深く刻み込まれている。

長沢さんはこの3つの流れを基礎に、情勢を分析しようとしているようだ。

1. 軍が提示した2度目の行程表

2013年6月30日の民衆蜂起、 「6月30日革命」を受けて、軍は翌日7月1日に声明を発表し、全ての政治勢力が48時間以内に和解するように求めた。ムルシーはこれを拒否した。

7月3日、軍トップのシーシー国防相は、軍の用意した工程表を発表した。それは①憲法改正→②議会選挙→③大統領選挙よりなる。これは後に①→③→②となった。

このあと長々と「1月革命」の経過が語られていく。長沢さんの文章はきわめて入り組んでいて、文章そのものの要旨ではない注釈部分に重要な事実が書き込まれており、実に読みにくい文章となっている。

「1月革命」の経過は、論旨からいうと枝葉なのだが、読み手からすれば、革命の総括が書かれたもっとも重要な箇所だ。とりあえず従いて行くしかない。

一度目の工程表: 2011年革命の総括

2011年革命において、軍が決めた行程表は、「②議会選挙→③大統領選挙→①憲法改正」であった。

左派勢力は、まず革命の理念を体現した新憲法の制定を最初に行うべきだと主張した。しかし、軍はこれに従わなかった。内心では現体制の大幅な変更を望んではいなかったからである。

同胞団は選挙を先に行うことで、理念よりも組織力による主導権確保を狙った。これに軍は乗り、3月の「暫定的な憲法改正」を国民投票で押し切った。つまり憲法改正は先延ばしにされたのである。

ついで行われた議会選挙で、同胞団は総議席の3分の2を超える地滑り的勝利を収めた。革命の勝利の果実は同胞団により掠め取られてしまった。

大統領選挙と同胞団の心変わり

革命後に2勝を収めた同胞団は、3勝目も狙うようになる。

当初は、同胞団候補は出さず、世俗派に大統領職を委ねる意向であった。これが何故心変わりしたかについて、真相は未だ不明である。

長沢さんはいくつかの可能性を上げている。次なる最終戦、新憲法制定で勝利を収めるために、どうすべきかという議論があっただろうという。

新憲法における勝利とはどういうことか、それは「同胞団が掲げてきた理想であるイスラーム国家体制の建設」を保障する憲法である。

大統領選挙は同胞団と軍の支持するシャフィークとの決選投票となった。軍は同胞団と断絶し、真っ向から対立するようになった。そして同胞団が勝利した。

議会選挙の結果から見ても、同胞団の勝利は当然だった。だから大統領選挙に勝利したということより、大統領職も自らの手に収めるという判断をしたことが重要である。その結果、軍を敵に回すことも覚悟の判断である。

そして軍との対決は8月にやってきた。ムルシー政権は大統領と議会の3分の2の議席という力を背景に、軍最高幹部の更迭という「荒業」に踏み切ったのである。

これはいったん成功したかに見えた。同胞団にとって左翼・リベラルを抑え込み、軍の統制を確保することは、自らの独裁権力の確立であるかのように思えたのであろう。

そこから同胞団政権はイスラム原理主義にもとづく憲法制定とイスラム国家づくりに突進していくことになる。

彼らは勝利に過信し、軍の実力と意思を見誤っていた。

米国の同胞団へのスタンス

米国は従来からポスト・ムバーラク期を見越して同胞団と接触していた。米国は同胞団を穏健派イスラーム主義勢力と見ていた。そして同胞団政権の未来を「トルコ・モデル」の図式の上にとらえていた。

7月政変が起きると、米国はエジプトの民主化改革に遅延をもたらすものと批判。米議会は対エジプト援助の供与中止を決議した。

このような米国の見通しの甘さも、同胞団の強硬姿勢をもたらしたといえる。

新工程表の意味

今回の工程表では、まず新憲法の制定が先行した。

新憲法の意味は若者・リベラル勢力が2011年当時に求めたように1月25日革命の理念を実現するためではない。

新憲法の制定が目指したのは、2012年憲法に見られる「同胞団色」の一掃であり、軍をはじめとする既存の諸勢力(司法エリート、アズハルやコプト派教徒など)の権益や地位の再確認であった。

また、大統領選挙を議会選挙に先行させたのは、議会政治の軽視、あるいは不信である。そこには議会政治の重視が同胞団の進出をもたらし、政治混乱を生み出したという思いがある。

つまり、軍が目指すのはある意味で「ムバラクなきムバラク体制」といえるかもしれない。

6月30日革命、すなわち反同胞団政権運動の主体であったリベラル勢力や若者運動への態度はたんなるリップサービスに終わっている。

2.新憲法の内容

3.大統領選挙とその結果

4.議会選挙制度改革

5.同胞団の弾圧とテロの激化、そして若者運動の抑圧

権力を握った軍政権は同胞団に過酷な弾圧を加えた。

2013年8月14日、軍はムルシー復職をもとめる同胞団デモに対し強制排除を行った。ラーバア・アダウィーヤ広場での衝突では約千名が殺された。

12月に同胞団による警察襲撃事件が起こると、政府は同胞団をテロ組織に指定した。同胞団の資産は凍結され、幹部の資産は没収された。

2014年に入ると、弾圧はさらに苛烈さを増した。3月に同胞団員529名に死刑判決が下され、4月にはさらに683名に死刑判決が下された。

テロ事件の頻発と政府の弾圧強化の中で、「4月6日運動」などの若者活動家も多くが逮捕・勾留されている。青年運動は事実上不可能な状況に追い込まれている。

6.外交政策

2月革命以降、多彩な動きを見せていた外交活動は、ムバラク時代の姿勢にほぼ戻った。

とくにガザのハマスに対しては同胞団がらみで態度を硬化させている。シーシー政権は、ガザ地区につながる物資搬入のトンネルの破壊を徹底して実施してきた。

これはシナイ地区の反政府ゲリラが同時にガザへの密貿易グループでもあることから、資金源を絶つ目的もあるようだ。