昨日酔っ払って書いた核酸→RNA→DNAというのが、実は大変な問題らしい。

老人が間違えてアクセルを踏んでしまって、えれぇところに突っ込んでしまったようだ。

どこがどうしてえれぇところかというと、「RNAワールド」と言って「かつて原始地球上にRNAで出来た世界が存在していて、それが生命世界へと発展していった」という仮説がある。

これはこれで良いのだが、これに対して「プロテイン・ワールド」という仮説があって、核酸よりも蛋白のほうが生命にとって本質的なのだという。

目下この二つが大論争の最中らしい。当然のことながら、両者の論争はきわめて専門的であり、最新の情報を駆使したものであり、かつ根本のところではきわめて党派的なのだ。

「核酸党」と「蛋白党」の対決を少し眺めることにしたい。

RNAワールド

我々が学校で習ったのは、DNA→RNA→蛋白であり、DNAが基本である。これを「セントラル・ドグマ」という。

ただ発生学的に考えれば、RNAが最初にできて、DNAは“種の保存に特化したRNA”として出来てきたのではないかとも考えられる。

これは昨日、私が酔った頭で考えだした“思いつき的ドグマ”である。

しかし、シラフでしっかり考えて、必要な実験もやった人がいて、それが「RNAワールド」仮説として流布されているらしい。ただ「RNAワールド」論者の主張はRNA→DNAにとどまらない。

プロテインワールド

「セントラル・ドグマ」は現実に行われているタンパク合成の機序を示したものにすぎない。しかし「RNA ワールド」は、そもそも核酸がまずあり核酸がタンパクを作り出したとする、

それは核酸主義だ。生命にとって蛋白よりも核酸のほうが本質的だという観点を内包している。「RNAワールド」はDNAワールドをイデオロギーにしてしまった。「神々による天地の創造」の誕生だ

これに対して昔からの蛋白党が装いを新たに登場し、公然と異議を唱えた。

たしかに蛋白は生活の現場を動かしている。起源がどちらかは別にして生命活動においては蛋白のほうがはるかに本質的である。RNAなどなくても低級のポリペプチドならいくらでもできる。

いっぽう核酸の方は奥の院であれこれと人を動かしているだけだ。たかがお神輿ではないか。再利用するとしても、燐という資源に拘束されている。

RNAワールド論への疑問

RNAワールド論の弱点はいろいろ指摘されているが、私には「なぜRNA・DNAは蛋白を作り出さなければならなかったのか」という疑問が決定的なように思える。そこには必然的な理由がないのだ。人間は必要だからコンピュータを作リ出した。おなじようにコンピュータは人間を作ることを必要とするのか。

ある日、RNAが「あぁ、核酸ばかりじゃ何も出来やしない。蛋白みたいなものがあったら便利だなぁ」と思いついて作り始めた。これは「ドラえもん」に出てくるのび太のセリフである。

核酸を介さない蛋白の合成、アミノ酸の重合というものがまずあって、それを交通整理するために核酸が介入するようになった。あるいはさらに、生命活動を営むにふさわしい高級蛋白を作るためにRNAの情報管理能力がもとめられた。

とするのが素直な考え方ではないか、と思われてしまうのである。


何れにせよ勉強だ。