以前、昭和8年2月21日の動きを時刻表にしたことがあり、探したが、どこやらわからぬ。いろいろ探して、ここにあるのを発見した。

2月20日

正午 多喜二、赤坂で街頭連絡中に捕らえられ、築地署に連行きれる。

午後5時 多喜二、“取調中に急変”。署の近くの前田病院の往診を仰ぐ。(江口によれば午後4時ころ死亡)

午後7時 前田病院に収容したが既に死亡していることが確認される。“心蔵マヒで絶命”とされる。

2月21日

正午ころ 東京検事局が前田病院に出張検視し、死亡を確認。

午後3時 警視庁と検事局、「多喜二が心臓マヒにより死亡した」と発表。ラジオの臨時ニュースと各紙夕刊で報じられた。ラジオ放送の直後に動いた人々は…

築地署: 大宅壮一、貴司山治、笹本が築地署にいち早く駆けつけ、当局との交渉にあたる。

前田病院: 築地小劇場で事件を知った原泉が前田病院にかけつけた。「遺体に会わせろ」ともとめた。警察は面会を拒否し、原とはげしくもみ合う。警察が拘束の動きを見せたため、大宅壮一と貴司山治が仲裁に入る。救出された原泉と大宅らは築地小劇場を基地とし、各関係者と連絡を取る。

馬橋: 多喜二の母セキは杉並区馬橋の自宅にいた。ラジオを聞いた隣家の主婦から知らされた。セキは預かっていた二歳の孫(多喜二の姉の子)をネンネコでおぶると、築地署へかけつけた。

夕方 セキが築地署に到着。この時遺体は署の近くの前田病院に安置されていた。当初、警察はセキを二階の特高室に閉じ込め、なかなか会わそうとしなかった。

夕方 

都内各所に夕刊が配達される。配達の直後に動いた人々は…

築地署: 青柳盛雄弁護士らが築地署に赴き、遺体の引渡しを要求。さらに連絡を受けた安田徳太郎医師がやってきて警察と交渉。

馬橋: 江口は吉祥寺の自宅にいて、配達された夕刊で多喜二の死を知った。大宅壮一からの電話があり、「馬橋のセキさんを伴れて築地署へ来い」と言われた。ただちに馬橋に向かうが留守のため、阿佐ヶ谷から省線でそのまま築地署に向かう。

百合子グループ: 上落合の中条百合子宅で窪川稲子も同席して夕食の最中、夕刊で事件を知った。推測では、東中野在住の壺井栄と連絡を取り、中央線中野駅で集結し阿佐ヶ谷に向かったものと思われる。

当初の記載で、中条家を下落合としていたが、上落合の間違い。土地勘がなくて誤解していたが、上落合というのは西武線の下落合とはだいぶ離れていて、どちらかと言えば中央線の東中野に近い。したがって歩いて東中野に出るのがもっとも早い。

午後9時

築地: 在京中の秋田の親戚の小林さんが築地署に駆けつける。彼が身元引受人となり、遺体の引き取りが決まる。

推測だが、三吾はこの時点で行方がつかめなかったのではないか。遺体の引き取りには身元引受人が必要であり、それには戸主(男性)であることがもとめられていたのかもしれない。そこで弁護士がセキから根掘り葉掘り聞いて、秋田の親類を見つけ出したと考えられる。

午後9時30分 孫をおぶったセキが特高室を出され、前田病院で遺体と対面。この時セキと同行したのは、作家同盟の佐々木孝丸、江口渙、大宅壮一。青柳盛雄ら3人の弁護士。医師の安田徳太郎。

午後9時40分  大宅らの雇った寝台車が。遺体とセキ+孫、親戚の小林さんを載せ前田病院を出発。

午後9時40分 江口らがタクシーで寝台車の後を追った。同乗者は藤川美代子、安田博士、染谷ら4人。

午後10時

百合子グループ: 阿佐ヶ谷に着いた3人は、若杉鳥子(窪川は「同盟員」と書いている)の家に落ち着いて情報収集にあたった。前田病院から、すでに寝台車が出発したとの情報を受け、多喜二宅に向かう。

稲子は「すでに多喜二宅前には10人ほどが集まっていた」と書いてあるから、そちらにも視察に行ったのであろう。鳥子家を利用するという「良案」を誰が考え出したのかは不明。
前田病院に電話したのは稲子で、彼女はわざわざ西武線の沿線(鷺ノ宮駅?)まで行って街頭から電話したという。警察の張り込みを避けての行動かもしれない。
「すでに出た」というからには、その電話は早くとも9時40分過ぎのことであろう。もしそれが10時と仮定すれば、それから歩いて鳥子家まで戻るのに30分は見なくてはならないから、それから多喜二宅に向かうとすれば、到着は10時40分ころということになる。

10時ころ 遺体が小林家に到着した。ほぼ同時に江口、安田らのタクシーも到着。小林家では近親や友人達が遺体を待ち受けていた。

出発及び到着時刻は川西の記載によるものであるが、築地から阿佐ヶ谷までわずか20分で着くとは到底思えない。築地の時間が正確だとすれば、到着は早くとも10時30分ころと思われる。

小坂多喜子: 小坂多喜子と夫の上野壮夫は車に僅かに遅れて到着した。(小坂多喜子の回想)

どこからか連絡があって、いま小林多喜二の死体が戻ってくるという。
息せききって…走っている時、幌をかけ た不気味な大きな自動車が私たちを追い越していった。…あの車に多喜二がいる、そのことを直感的に知った。
私たちはその車のあとを必死に追いかけていく。 車は両側の檜葉の垣根のある、行き止まりの露地の手前で止まっていた。奥に面した一間に小林多喜二がもはや布団のなかに寝かされていた

小坂と上野
        小坂と上野

セキの「ああ、いたましい…」のシーンがあった後、セキが服を脱がせ安田が検視を開始する。

午後11時

午後11時 百合子グループが多喜二宅に到着。以下、稲子の文章を長めに引用する。

我々六人(内訳不明) は阿佐ヶ谷馬橋の小林の家に急ぐ。家近くなると、私は思わず駆け出した。
玄関を上がると左手の八畳の部屋の床の間の前に、蒲団の上に多喜二は横たえられていた。江口渙が唐紙を開けてうなづいた。
我々はそばへよった。安田博士が丁度小林の衣類を脱がせているところであった。
お母さんがうなるように声を上げ、涙を流したまま小林のシャツを脱がせていた。中条はそれを手伝いながらお母さんに声をかけた。

午後11時 安田医師の死体検案開始。検視の介助には窪川稲子と中条百合子があたる。検視の後、壺井栄らが遺体を清拭した。

死体検案は当事者には長く感じるが、見るポイントは決まっていて意外に短時間で終わる。すでに死後24時間を経過していれば、筋の緊張は緩み仏顔になってくる。死後硬直は取れ扱いは容易だが、出血と脱糞の匂いは相当強烈で、清拭が骨折りであろう。それでも前後15分もあれば片付く。

闇の中の1時間

このあと約1時間のあいだの経過は、まったく私の推論だ。

11時30分 百合子グループと安田医師が多喜二宅を出る。江口によれば、この間に多くの人が駆け込んできた。(このあたり江口の記憶はごちゃごちゃになっている)

おそらく安田医師が帰ると言ったのに、「それじゃ私たちも」と同行することになったのではないか。医師は明日の仕事があるのと、基本的には診察先に長くいたくはないという真理が働く。女性たちにも子供のことやら家のことやら明日のことやら、いろいろ事情があるものだ。何れにせよ稲子の「午前2時」は間違いなく誤解だ。

11時30分 百合子グルームが多喜二宅を離れて間もなく、ふじ子が駆け込んでくる。この後、多喜子の文章の「愁嘆場」が出現する。

ふじ子は築地小劇場を訪れて、原泉に「多喜二の妻です」と打ち明け多喜二の遺体にひと目会いたいと懇願した。これは多喜二の遺体を送り出した9時40分以後のこと、おそらく午後10時頃のことである。
その時まで4時間のあいだ、ふじ子には、行くべきかどうか逡巡する時間もあったろうし、築地署前の群衆に紛れて右往左往していた時間もあったろう。
原泉はこの「女優」に見覚えがあって、「女の勘」が働いて、瞬時に事情を察した。そしてこれから多喜二宅に向かうという新聞記者を見つけ同行させた。クルマに乗ること1時間ちょっと、登場時間としては妥当である。

12時頃 江口の文章の「接吻の場面」が登場。まもなくふじ子は多喜二宅を退去する。(小坂多喜子は「いつの間にかいなくなった」と表現している)

恋猫の 一途 人影 眼に入れず
ボロボロの 身を投げ出しぬ 恋の猫

12時頃 稲子の文章によれば、「…踏み切りの向うで自動車が止まり、降りた貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合った」

当時の阿佐ヶ谷駅は正面が北口で、多喜二宅からはいったん踏切を渡って線路の北側に出なければならなかったのだろうと思う。
一方築地小劇場組は、怪しまれないように踏切の北側で降りて歩くことにしたのだろう。原泉とふじ子は、論理的にはどこかで交錯しているはずである。ふじ子が避けたか、原泉が沈黙を守ったかのいずれであろう。

2月22日

午前0時 千田是也, 岡本唐貴、原泉らが多喜二宅に到着。 「時事新報」 社のカメラマンが多喜二の丸裸の写真をとり、佐土(国木田)が多喜二のデス ・ マスクをとった。岡本唐貴が8号でスケッチを描いた。(時事新報の写真撮影はもっと前、検視時だと思う)

デスマスクについては、築地小劇場組の一小隊が別行動で動いたらしい。佐土という人はデスマスクの専門家だが、活動家ではない。彼に依頼して材料の石膏を仕入れるのにずいぶん時間を食ったという情報もある。

午前1時 小林家の6畳の書斎で人々は遺体を囲んだ。この時貴司山治により2枚の写真が撮られた。この後の記録はないので、写真撮影の後まもなく解散したのだろうと思う。

ひょっとすると1マイメノ写真を撮った直後に三吾が現れたのかもしれない。2枚の写真はそういうストーリーを感じさせる。

江口によれば以下の如し。
多喜二宅で葬式の手順が話し合われた。告別式は翌日午後一時から三時まで。全体的な責任者江口渙、財政責任者淀野隆三、プロット代表世話役佐々木孝丸となる。
「通夜の第一夜は何時か寒む寒むと明け放れていた」

午後1時 告別式。会葬しよう と した32名が拘束される。若杉鳥子も捕らえられる。この結果、セキ、三吾、姉佐藤夫妻、江口と佐々木孝丸だけで葬儀を執り行う。