ということで、

貴志山治の2枚の写真をもう一度見返す。

伊藤さんの読み込みについては、まず後列の女性が窪川稲子ではありえないことが指摘される。

もう一つは2枚の写真の前後関係である。二つの写真は明らかなライティングの違いがある。

成功作は天井からのライティングであたかも電球が照らすように映し出されている。

これに対し失敗作ではライトは横向きに当てられ、光源が近すぎるために多喜二の顔はハレーションを起こしてしまっている。

率直に言えば、「決め写真」ではなく、ついでに撮った写真ということになるだろう。

なぜついでに撮ったかといえば、三吾とセキが入ってきたからだ。

画面右側の人物群はほとんど動いていない。真ん中に三吾とセキが割り込んだ。

しかし入りこんだのはそれだけではない。サンゴを割り込ませた江口の後ろに男女一人ずつ、そして左端には小父さんと小母さんが入っている。右端にも男性二人が入った。

カメラの位置は5,6センチ低くなり近接している。山田清三郎と千田是也は視界から外れてしまった。

この新たに入った4人に関して、情報を発見した。

川西政明さんの「新・日本文壇史」という本の第4巻に、1933年2月20日の動きについてかなり詳しく触れられている。

この中で遺骸の引き取りの経緯が初めてわかった。

6時にはすでにセキは築地署につき小谷特高主任から経過説明を受けている。なのに遺体に会わそうともしないし、引き取りも認めない。

おそらく理由はセキが戸主ではないからであろう。そして戸主たる三吾はなかなか連絡が取れない。

なんだかんだと時間が過ぎていくうちに、セキは秋田の小林の親戚が上京中であることに気づいた。

この小林さんが9時近くに築地署に着き、ようやく引き取りが決まったのである。

セキは前田病院に入り遺体と対面。その後、寝台車で馬橋の自宅に向かうことになる。寝台車に乗ったのはセキ(と背中の孫)、親戚の小林さん。随走するタクシーに江口と安田医師らである。

おそらくこのちょび髭は秋田の親戚の「小林さん」であろう。この人と江口はすでに式服に着替えている。

とすれば、田口たきと比定された女性はその妻の可能性が高い。そして江口の後ろに割り込んだ男女が姉夫婦ということになるのではないか。

そして、三吾さんが到着したのを機に、今にいた親戚が揃って遺体とあらためてご対面したところなのだろうと思う。

三吾さんがなぜこんなに遅くなったのか(おそらく12時を回った時刻)は不明である。

なお、おなじ川西政明さんの本にはその夜の参加者が列記されている。

このうち写真で特定できているのが

岡本唐貴、池田寿夫、岩松淳、立野信之、田辺耕一郎、原泉、鹿地亘、山田清三郎、千田是也、それに直接自宅から来た上野杜夫と小坂多喜子。それに撮影者の貴志山治である。

この他に本庄陸男、川口、千田、淀野、大宅壮一、笹本、佐々木孝丸の名が挙げられている。

ただし大宅、笹本は築地署には現れているが、馬橋まで行ったかどうかは不明。