キューバ音楽の歴史……ソンを中心に

 砂糖ブーム以前のキューバ

1492年、コロンブスがキューバに上陸したとき、そこにはシボネイやタイノなどの先住民が暮らしていました。

彼らは奴隷狩りや征服者が持ち込んだ疫病によりわずか50年ほどで絶滅してしまいます。

征服者にとってキューバは魅力のない土地でした。最初は僅かに金が取れましたがたちまち枯渇してしまいます。そのうちメキシコのアステカ帝国やペルーのインカ帝国が知られるようになり、ほとんどの征服者はそちらに行ってしまい、後には無人の土地が残されました。

わずかに新大陸とスペインを結ぶ中継点としてハバナとサンチアゴの港だけが残されました。この状態で250年が過ぎていったのです。

砂糖産業の勃興と黒人奴隷の流入

新大陸諸国は母国スペインとの貿易しか許されていませんでしたが、イギリスが介入してきたことで新たな市場(と言っても密貿易)が開拓されるようになりました。

1762年、イギリスは短期間ハバナを占領。その後も経済的進出を強めました。

イギリスは大量の砂糖を買うようになりました。そのために砂糖農園が次々に開かれ、労働者として多くの黒人がつぎ込まれました。1800年には、白人人口29万人に対し黒人が34万人に達しました。ハバナの人口は10万を超え、新大陸でメキシコ、ニューヨークに次ぐ街となりました。

イギリス人は管楽器、弦楽器、鍵盤楽器などを持ち込みました。1776年にはハバナに最初の劇場「テアトロ・プリンシパル」がオープンしています。当時の裕福な白人が好んだのはメヌエットやガヴォットだったそうです。

奴隷の一部は解放され自由黒人となりましたが、食うためにはハバナに出て船乗りや職人相手の怪しげな仕事にありつくしかありませんでした。黒人の大道芸人が数多く生まれました。

彼らは白人の好むヨーロッパの音楽を黒人風にアレンジして演奏しました。黒人風というのは、音楽的に言えば3拍子を2拍子に変え、シンコペーションを加えることでした。

この「ロボット風」のぎくしゃくした演奏が、ハバナを訪れたヨーロッパ人には存外モテたようです。

ハイチ独立とフランス人農園主の流入

ハバナ近郊にサトウキビ農園が広がっていった頃、世界最大の砂糖産地ハイチでも大きな変化が起こりました。1790年、当時サン・ドマングと呼ばれたハイチの黒人奴隷が反乱を起こし、10年に渡る戦いの末フランス人を追い出して、黒人共和国を立ち上げたのです。

この結果ハイチを逐われた白人や黒人数千人が対岸のサンチアゴに流れ込みました。彼らは質の高いフランス文化を持ち込みました。その一つが音楽です。

フランス系ハイチ人の音楽はブルターニュ地方由来と言われます。それはコントルダンスという舞曲でした。このコントルダンスというのはもともとイギリスの田舎舞踊(カントリー・ダンス)がフランスに持ち込まれたものといわれます。

これがスペイン語に変わってコントラダンサと呼ばれるようになりました。

1830年頃、サンチアゴのコントラダンサはハバナにも広がりました。そこで黒人的な修飾を受けてコントラダンサ・アバネーラとなり、さらにリズミックな短い反復パターンのシンプルなアパネーラヘと変わっていきます。

外国との音楽的交流

1840年 スペインの作曲家イラディエールがキューバにやってきました。その滞在中にハバネラを知った彼は,そのスタイルをもちいて「ラ・パローマ」を作ります。You Tubeではビクトリア・デ・ロス・アンヘレスの素晴らしい歌唱が聞けます。

この曲はヨーロッパで大流行したばかりでなく、アルゼンチンにも拡散し、タンゴの源流の一つになったそうです。

なお一説ではボレロもコントラダンサから派生したと言われますが、これはれっきとしたスペイン音楽です。ダンス音楽ですが、コントラダンサよりも歌の要素が強いものです。

1900年頃ハバナに広がったボレロは、3拍子から2拍子となり、その後メキシコに伝播しました。

ボレロは1950年代にメキシコからラテンアメリカ全土に広まりました。トリオ・ロス・パンチョスなどメキシコの男性トリオが歌う甘い曲は、ひとからげにボレロと呼ばれています。

逆にメキシコから持ち込まれたのがグァラーチャです。これは本来メキシコ起源のアップ・テンポのリズムで、主にハバナの黒人街の淫売宿で流行したといいます。情交の際に男性が腰を前後に振る卑猥な仕草が踊りになったという下品者です。

今日ではグァラーチャ特有の形式というものは残っていないそうです。むかし「イカした」という男性の褒め言葉があって、これは情交の際に「女性をイカせる」というのが語源だそうなので、そういう風なトッポイ感じの曲ということなのでしょう。

あまりキューバの匂いはせず、むしろメキシコのマリアッチという感じです。

キューバ音楽を形成する3つの要素

19世紀後半にキューバ音楽を形成する3つの要素が出揃います。それがダンソンとソンとルンバです。色で言うならダンソンが白、ソンが褐色、ルンバがクロということになるでしょう。

まずダンソン。これは1880年にミケール・ファイルデが売り出したものです。1870年ころにマタンサス地方を中心に発展したといわれます。

スペインの舞曲を引き継いだと言われますが、ロボットのようなシンコペーションは黒人音楽の影響を受けたキューバ特有のものです。拍子も1/2から6/8と変化しています。

コントラダンサと異なりカップルで踊りますが、きわめて健全なおとなしいものです。これは白人上流社会で流行しました。

初期は軍楽隊が公務のあいだに演奏したようです。この編成はオルケスタ・ティピカと呼ばれます。これでは流石に無骨なので、後からは二本のバイオリンと1本のフルート、ピアノ・打楽器で編成されるようになりました。

白人農民音楽との融合によるソンの成立

次がソン。これはコントラダンサを根っこに発展したもので、東部のサンチアゴが起源です。

ソンの成立過程については十人十色で、定まったものはありませんが、アフロ=キューバン音楽とスペイン起源の田舎の音楽を受け継いでいるとされています。

そもそも混血音楽であることについては、大方の意見が一致しているようです。サンチアゴでは、「山の人のソン」が街に広がり、ソンが生まれたと言われています。

「山の人」というのは白人です。なぜなら黒人は農場を脱出しない限り「山の人」にはなれないからです。後から入植した白人はどうしても条件の悪いところに入らざるをえません。プエルトリコでいう「ヒバロ」です。カマグエイからオリエンテにかけては、そういうプアーホワイトが今でもたくさんいます。

そういうスペイン人移民がもたらしたのが、サパテーオというダンス音楽、デシマという歌詞を重視した音楽ジャンルです。デシマはほとんどソンそのものです。ギター、トレス、ボティーハ(あるいはマリンブラ)のトリオが基本となっています。

ただ東部地方は米西戦争後に大規模な砂糖農場の開発が進み、これに伴いハイチの黒人が多数入ってきました。したがって黒人の音楽も色濃く投影されています。サンチアゴよりさらに東、グアンタナモあたりでは、より黒人音楽のリズムをとどめたチャングイというスタイルが残っています。

ソンが芸術的レベルに達したのにはトローバ(ミンストレル)という旅芸人の存在が大きく関わっていました。彼らはギターの伴奏で時事ネタ、下世話ネタや、センティメンタルなバラードを歌い、人気を博しました。彼らによりソンは技巧的にも洗練された物となっていきます。代表的な歌手がシンド・ガライとぺぺ・サンチェスです。日本で言うと高橋竹山ということになるのでしょうか。

黒人の自立化とルンバ

最後がルンバ。これは我々が普通に言うルンバではなく黒人社会の打楽器音楽を指します。これには少し背景説明が必要でしょう。

キューバが世界一の砂糖産出国となるについては膨大な労働力が必要でした。他のラテンアメリカ諸国が独立した後もキューバは依然スペインの植民地にとどまりました。

スペインは国の総力を上げ砂糖増産に力を注ぎました。奴隷制度はラテンアメリカ諸国で最も遅く1873年まで続いたのです。

大規模農場が島の中西部に集中したことから、黒人社会もハバナやマタンサスなど西部を中心に形成されました。

膨大な黒人人口は、出身地によっていくつかの集団に分かれました。なかでもナイジェリア西部から来たヨルバ族は最大の集団を擁し、独自の文化・習慣を現在まで残しています。その典型がサンテリーア(ヴードゥー)と呼ばれる宗教儀式、コンパルサと呼ばれるカーニバルの仮装行列などです。

大規模な打楽器集団による複雑なリズムが特徴で、クラーベ、コンガ、バタ(太鼓)の複雑な掛け合いは黒人以外には真似出来ないものです。

ルンバはヨルバの文化の中では世俗的なジャンルにあたります。各種打楽器の合奏がモチーフとなり、独唱歌手とコーラスがコール・アンド・レスポンスで掛け合います。ルンバにはヤンブー、コルンピア、グァグァンコーなどの種類がありますが、いずれも限りなくアフリカンです。

独立戦争の終結と東西文化の混じり合い

キューバでは1867年から1900年まで30年にわたり独立戦争が戦われました。結果としてスペインからの独立は実現しましたが。今度はアメリカに従属した半独立状態になります。

一方で、国の東部と西部が一体となり、相互の交流が進みました。兵士によりハバナにソンが持ち込まれ、ハバナで流行していたダンソンと相互に影響し融合していきます。

ダンソンの演奏家が哀愁を帯びたソンの曲を演奏するようになりました。ソンの演奏家はダンソンの楽器編成を取り入れ、あらたな音色を獲得します。

ソンの元の編成はギター、トレスのほか、リズム楽器としてボティーハ(Botija)が加わっていました。これは詰まるところただの壺です。マリンブラ(Marimbula)というのを使うこともありましたが、これも木箱にブリキの短冊を釘で打ち付けたものに過ぎません。

花の都ハバナに出てきて、この「楽器」では流石に恥ずかしい。ということで、マリンブラとボティーハの代わりにアップライト・べ-スが導入されました。

marimbula-ma840

マリンブラ 今では立派な楽器として販売されている

サンチアゴのカサ・デ・マタモロでは今でもマリンブラが使われていますが、さすがにボティハはありませんでした。

Botija (cantir) de terrissa negra catalana, Museu Soler Blasco de Xabia.JPG
Botija (Botijo, Botijuela, Bunga)

 さらにリズム楽器としてボンゴが加わりました。これとギター、トレス、ベースの4人でバンドとしての基本は出来上がります。これに専属の歌手が、どういうわけか男性二人が加わります。この二人はただ歌うだけではなくクラベスとマラカスを担当しました。

こういうセステートの形が出来たのが1920年頃で、セステート・アパネーロ、セステート・ナシォナールがその代表となります。セステート・ナシォナールはさらにその後、トランペットを加えたセプテートの編成を確立します。

ソンのグループがブレイクした理由

1920年は第一次世界大戦が終わってアメリカが空前の好況を迎えた年でした。(多少憶え違いがあるかな)

アメリカの半植民地であるキューバも、そのオコボレで景気が良くなります。とくに観光業は空前の発展を遂げました。

何と言ってもアメリカの禁酒法が後押ししました。日頃つらい日々を送っている飲ん兵衛には、ハバナに行けば自由に酒が飲めるということはそれだけですばらしいことです。キューバの政府は賄賂次第でいくらでも融通が効きました。賭博も自由なら、売春も自由。不埒な連中には天国となったのです。

マフィアの息の掛かったカジノ付きホテルが続々と建ち、ダンス・ボールにはソンの楽団が進出しました。

1922年にはラジオ放送が開始されました。ちなみに日本では25年のことです。これでソンがブームにならないわけがありません。

ソンがアメリカにも進出

1928年、アメリカの興行会社がルンバを大々的にプロモートしました。ところでルンバというのは、黒人社会のかなり特殊な音楽ですが、ソン (son) がソング (song) と混同されないように、ルンバの名で売り出したとされています。つまりアメリカ資本がソンを勝手にルンバと名付けたわけです。

このキャンペーンの中で空前の大ヒットとなったのが「南京豆売り」です。これはドン・アスピアスとハバナ・カシノ楽団というグループの演奏でした。

楽団の編成はさらに大きくなり、ホーンセクション、ギター、ベース、シンガー、ピアノ、ボンゴにコンガが加わるようになります。これらの楽団はもうオクテットではなくコンフントと呼ばれるようになりました。

盲目のギタリスト、アルセニオ・ロドリゲスがニューヨークで活躍を開始。その楽団は第ニトランペット、サクソフォンなどをくわえホーンセクションも強化されました。これが現在のラテンバンドの標準編成となっています。

マチートはアフロ・キューバン・ジャズというジャンルを開拓し、米国で大活躍します。逆にジャズ畑のディジー・ギャレスピーがカーネギー・ホールでラテン・ジャズコンサートを開き大成功させるなどの現象も起きています。

もともとクラシック畑のエルネスト・レクォーナもレクオーナ・キューバン・ボーイズを結成して欧米を演奏旅行。シボネイ,ラ・コンパルサなどのヒットを飛ばしました。

マンボの爆発

ソンの楽団の成功を見てダンソンのグループもソンを演奏して成功をもとめるようになります。それが1938年のカチャオ・ロペス作曲「マンボ」でした。

ダンソンのリズムセクションを強化し、シンコペーションとしたことで、特有の「ダサさ」が一掃されています。しかし音の響きはいかにもダンソン風でした。

第二次大戦が終わって間もなく、ダンス音楽のジャンルとして「マンボ」が誕生します。

物の本には、ソンのモントゥーノ部分を膨らませたものとなっています。考案者は自称他称で5,6人はいるようです。

プエルトリコ生まれのティト・プエンテはニューヨークで楽団を組織し、最初にマンボの演奏をはじめました。カチャオ・ロペスもみずからのコンフントを結成し米国内を巡演しています。

しかし、なんと言おうとマンボはペレス・プラードのものです。

彼はキューバ生まれですがメキシコで実績を積み、ホーンを中心とするフルバンド・ジャズの編成を取り入れ、ド派手な演奏スタイルを作り上げました。

52年のマンボ・ナンバーファイブで成功したペレス・プラドはその勢いで米国に乗り込みます。

1955年、セレソ・ローサが全米ヒットチャートで10週連続第1位を記録し、マンボ人気は頂点に達します。日本でもこの頃からマンボ人気が広がり、菊池容子が大時代な歌詞でカバーしています。マンボズボン(裾広がりのジーンズ)がアンチャンたちの風俗になりました。

ペレス・プラードだけではありません。ラテンのリズムは全米を席巻しました。キューバ国内ではソノーラ・マタンセーラ、ベニー・モレー、フェリクス・チャポティーンらが活躍しました。ニューヨークではマチート、ティト・プエンテ、ティト・ロドリゲスら非キューバ人も含めたラテン系バンドが人気を博しました。

50年代はソンの黄金時代と言えるでしょう。

ジャズとの交流

ソンの黄金時代はジャズの黄金時代、ハリウッド映画の黄金時代とも重なっています。それらのキューバへの影響は大きいものでした。

特に戦後になってから、ジェームス・ムーディらによりアフロ・キューバン・ジャズの分野が開かれました。好事家にとってはかなり面白い曲があるようです。

ただジャズのリズムはソンやダンソンのものとは基本的に合わないため、融合という点では成功せず、共存という形を取ったように思えます。

一方ジャズ・バラードに影響を受けたロマンチック歌唱のジャンルでは、このリズムの矛盾が比較的少ないため、とくにクラブ・シーンを通じて普及していきました。

センティミエント(Sentimiento)と言ったりフィーリン(Filin)と言ったりするようです。現在はオマーラ・ポルトゥオンド、エレーナ・ブルケがその代表格になっています。パブロ・ミラネスも前から積極的に取り上げています。

チャチャチャ ダンソンの復活

こういう流れに背を向けて、ダンソンの伝統を守る人々もいました。良質な家庭音楽といった雰囲気を持つダンソンは、ラジオの普及のお陰で命を永らえました。ロメウの楽団とバルバリート・ディエスの歌はそんな古き良き時代を感じさせます。

そんな中で、53年にエンリケ・ホリンが発表したのがチャチャチャです。ダンソーンよりリズムの強いチャチャチャが演奏されると、みんな腰を振って踊り始めたといいます。メキシコ風のアブラギッシュなマンボは、淡白なキューバ人の口には合わないようです。

エンリケ・ホリンのチャチャチャはアメリカでもヒットしました。日本でも江利チエミが歌っていました。(この人は進駐軍のキャンプから売り出した人で、シシカバブからサザエさんまでなんでも歌う)

そのあと、チャチャチャがさらにアップテンポになったパチャンガが流行を迎えますが、これは突如中断します。

キューバ革命とアメリカとの断交

59年1月にキューバ革命が成功すると一気に状況は変わります。アメリカはカストロ政権を一貫して敵視し、キューバはそれと対抗してソ連との関係を強めました。

キューバはアメリカ文化を嫌い、ジャズやロック、ビートルズまで敵視しました。外国との交流が絶たれたなか、ヨルバ族の伝統などアフロ系文化が見直され、モザンビーケというリズムが流行します。

しかし率直に言えば多様な音楽文化は沈滞を余儀なくされることになります。シルビオ・ロドリゲスでさえビートルズを評価したという理由でポストを外され、調査船(表向きは漁船)に乗り込むことになります。この船旅の経験を元に作られたのが名曲「エル・プラヤ・ヒロン」だと言われます。

一方、ニューヨークのラテン音楽シーンもその影響を蒙りました。プエルトリコ人たちはパチャンガをさらに発展させる方向で、他の非キューバ系ラティーノはジャズ、とくにR&Bやロックをラテン系に解釈する方向で動きました。

63年にはアフロキューバン・ジャズのモンゴー・サンタマリアによる「ウォータ―・メロンマン」がヒット。ブガルーのさきがけとなりました。ほとんどロックのノリです。初期にはレイ・バレット、ルベン・ブラデスなどもこの流れに加わっていましたが、結局ブガルーはアメリカのポップスに吸収されるかたちで消滅していきます。

様々な傾向のミュージシャンがデスカルガと呼ばれるジャム・セッションを試みました。このなかでドミニカ出身のジョニー・パチェーコらによりファニア・レーベルが発足。一連の試みがサルサと名付けられました。

ニューヨーク・サルサについてはキューバの話と離れるため省略します。

キューバにおける音楽政策の見直し

キューバの急進政策は60年代後半の深刻な経済的困難を招きました。また極端な平等化を嫌う多くのキューバ人が脱出していきました。

この結果、急進政策の全面的な見直しが進められ、この中でキューバ音楽も息を吹き返していきました。

まず66年、ヌエーバ・トローバ運動が始まります。米国のフォークソング運動やチリなどのヌエバ・カンシオン運動と共鳴し、メッセージ性の高い歌が作られていきます。この運動の代表がシルビオ・ロドリゲスやパブロ・ミラネースでした。

つぎにロス・バンバンなどチャランガ(ダンソン系の楽団)が、「ソンゴ」というウラ打ちのノリの良さを強調した演奏で人気を獲得しました。中には1940年創立のオルケスタ・アラゴンみたいな団体も復活してきます。

オルケスタ・レベはネグロ系の音色を強く押し出したコンフントとして人気を博しました。より正調ルンバに近いのがロス・パピネスです。これに追随するように多くのコンフントが登場してきました。

政府はこの動きを後押しするように国内の腕っこきを集め、「イラケレ」を作ります。正直に言えば外貨獲得の目論見がミエミエですが、その腕前は各国で驚嘆されました。ただし何人かは海外旅行中に逃げ出しました。

70年代なかばには、若手音楽家がサルサのモダンな響きを取り入れ、新たなソンを作り出し、若者の共感を呼びます。代表的なものとしてグルポ・シエラ・マエストラ、アダルベルト・アルバレスなどが挙げられます。

最近の動き

最近と言っても、この20年ほどの動きですが、政府の「音楽立国」的な動きが加速されました。

ジャズもビートルズもお構いなしということになりました。売れ線と思えば音楽学校からどんどん逸材を突っ込んできます。

この結果、国内経済の苦境とは裏腹に音楽市場はかつてないほどの活況を呈しています。

ソンの世界ではNGラバンダを先頭にバンボレオ、パウロ・イ・ス・エリテ、チャランガ・アバネーラ、メディコ・デ・ラ・サルサなどの若い世代が競い合っています。

彼らの演奏の特徴はティンバと呼ばれます。ニューヨークサルサとの違いを強調するためサルサ・ドゥーラと呼ばれることもあります。高度なテクニックに裏打ちされているが、演奏はダンサブルで内容は平易です。

音色的な特徴はジャズ・ドラムの導入にあり、これによりはるかに複雑なリズムが刻まれるようになりました。サルサといえばティト・プエンテでおなじみのティンバレスですが、キューバのティンバはドラムにあると言ってもいいかもしれません。

ジャズではローカル色でなく世界標準の技術で勝負をかけ、多くのミュージシャンが輩出されています。ピアノでは大御所となったチューチョ・バルデスの他ゴンサロ・ルバルカバ、ロベルト・フォンセカ、ルイス・ルーゴ、アルフレッド・ロドリゲス、アロルド・ロペス・ヌッサなど枚挙にいとまありません。

他にもサックスのセサル・ロペスなどがいます。

総じて、見た目の特徴は白いことです。キューバにこんなに白人がいたかと思うほど、多くの白人音楽家が登場してきます。それも揃ってエリート顔です。

かと思うと、97年には老人ホームの年寄り演奏家を集めた「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」が、グラミー賞を獲得しました。これがキューバの底力です。

キューバ音楽の行方

そんなことわかりません。語る資格もありません。しかしキューバ音楽の水準が技術的には革命後最高のレベルに達していることは間違いなさそうです。

それ自体は大変結構なことですが、手放しで喜んで良いものかというといささか複雑なところもあります。

キューバ国民みんなの生活が豊かになって、本当に喜んで、こういう音楽を聞ける日がくればいいなと思います。