ふと思い出して、前から気になっていた「多喜二の妻」の記事を探してきた。
朝日新聞 昭和42年6月9日(金曜日) の夕刊 文化面のコラム記事である。
多喜二の妻
縮刷版のコピーをスキャナーで落としているので大変見にくい。
要旨を書き出しておく。
基本的には、この文章は手塚英孝著 「小林多喜二」の紹介と読後感である。と言っても、文章全体ではなく伊藤ふじ子を扱った部分に焦点を絞ったものである。
(眠)子は、この本を最近読んで多喜二が結婚していたのを初めて知ったと書き出している。
そして事の要点を以下のごとく書き出している。
* 多喜二は地下生活に入って間もなく、このふじ子と結婚して同棲した。
* ふじ子は銀座の図案社に勤め、そのわずかな給料で多喜二の地下生活を支えていた。
* だが間もなくふじ子が検挙され、、そのアジトが警察に襲われ、多喜二は辛くも逃げ延びた。
* ふじ子は2週間後に保釈されたが、勤め先はクビになった。その退職金を人づてに多喜二に送っている。
* 二人はその後一切近づかなかった。これは当時の状況ではやむを得ないことであった。
* 1ヶ月後に多喜二が虐殺された。同士や田口たきは連絡を受け、集まっているのに、ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない。
ここからは(眠)子の感想になる。
* 自分の退職金まで送るというしおらしい女性だったけれど、党活動に参加していなかったから、多喜二の友人や崇拝者によって無視されてしまったのだろうか。
* 私はこの忘れられた多喜二の妻、伊藤ふじ子に最も関心を持つ。あわれではないか?

一言言っておくと、手塚も、通夜にも葬式にも参加していない。著者手塚は伊藤ふじ子を知るほとんど唯一の人だった。会場に闖入した半狂乱の女性が妻伊藤ふじ子であることを知るものは誰一人いなかった。
もちろん手塚は後で聞いて、それがふじ子であったと知ったはずだ。ふじ子が終生抱いていた多喜二の遺骨は、もしそれが本物であったとすれば、手塚以外に渡せる人物はいないはずだ。
しかし(眠)子が読んだ 「小林多喜二」の中で、そのことは触れられていなかったようだ。