朝鮮半島情勢と日本:  大化の改新と壬申の乱を国際関係で読む

1.7世紀日本の大まかな把握

7世紀は中国に出現した巨大帝国隋・唐が朝鮮支配を狙い、攻撃を仕掛けた時代である。唐は百済を滅亡させ、その5年後に高句麗も崩壊させた。新羅は目下の同盟国としてこれに乗じ、朝鮮半島の盟主となった。

しかし次に狙われるのは新羅である。このことは明白であり、新羅は唐との直接対決を覚悟した。

たまたま唐の北方(東突厥)、西方(吐蕃)でも異民族の蜂起があり、唐はそちらに力を集中するため朝鮮半島の兵力を割かざるを得なくなった。この機に新羅は打って出た。旧百済、旧高句麗勢力もこれを支援、日本も新羅に支持を与えた。結果、唐は朝鮮半島の直接支配を断念した。

この結果、朝鮮半島の主部は新羅が単一支配することとなった。新羅はあらためて唐に臣従の誓いを行い安堵された。

日本は562年に任那を失った後もなお百済との親交を深め、新羅とは冷たい関係にあったが、663年の百済滅亡に関わって大打撃を被ったあとは路線の大転換を図った。

それには事情があった。唐は新羅の反乱に際し日本の対新羅参戦をもとめ、さらに言を左右する日本に対し水軍の派遣をちらつかせたのである。

その中で日本は親新羅・反中国の姿勢を明確にした。

①唐の攻撃の脅威を正面から受け止め、自らの生き残りのために新羅の戦いを支援するという路線である。

②それは同時に専守防衛路線への転換でもあった。旧任那と言わず、旧百済と言わず朝鮮半島への派兵は一切行わない。対馬海峡を国境線としてこちら側にハリネズミの如き防衛線を設営して、ひたすら守りに専念する

これが情勢の激変の中で日本が定めた政治・軍事路線である。

これら2つのオプションは、天武が壬申の乱を経て政権を獲得する中で定式化されたものである。

そして最終的にこの「反帝国主義」の基本路線で一本化するまでのさまざまな動揺が、7世紀日本の政治を規定しているのである。

典型的なのが天智天皇で、

663年に白村江の戦いの戦いに敗れた後、百済駐留の唐軍が大和王朝に使節を送るが、天智は回答を拒否している。そして大規模な国土防衛計画を発動した。

なのに、665年に高宗の勅使が来訪したときは、送唐客使(実質遣唐使)を派遣し、国交回復に乗り出した。668年に高句麗が滅亡すると、天智は遣唐使を派遣し、「高麗を平定したことを賀す」に至る。なおこれは「新唐書」には記載されているが、記紀にはない事実である。

天智が勇猛果断な人物であることは論をまたない。しかし政治の根本を揺るがせにすると、結果として民族自決とマキャベリズム・ミニ覇権主義の狭間を右往左往することになる。

ホーチミンの言葉を今一度思い起こす。これは哲学上の真理ではなく、政治学の根本原理である。

「独立ほど尊いものはない」

* 2.以降は日を改めます。7世紀の経過をより深く知りたい方は、とりあえず7世紀の年表を御覧ください。