安倍武彦 「蘇我氏とその同族についての一考察」(1964)という論文がある。例によって北大の文献だ。

蘇我満智(宿禰)は書紀履中二年条に、平群木蒐宿禰・物部伊百弗大連・円大臣と共に国事をとる(日本書紀 履中2年条)

諸国貢朝年々盈溢し、更に大蔵を立てて、蘇我麻智宿禰をして三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を検校せしめ(古語拾遺 雄略朝)

韓子、紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小毘火宿禰を大将軍として新羅を討つ(日本書紀雄略9年条)

大伴金村、物部食鹿火を大連とし、蘇我稲目宿禰を大臣とし…(日本書紀 宣化元年の条)

以上が日本書紀に出てくる万智、韓子、稲目の引用だ。韓子については、この後に先程の朝鮮での戦いが載せられている。安倍さんはしょうもないフォークロアだと一蹴している。


次が星野良作(法政大学) 「蘇我石川両氏系図成立の時期について」という論文。こちらはの星野さんという人の文章だ。

「蘇我石川両氏系図」というのは、続群書類従巻一六七の一巻らしい。ウィキの系図の根拠になっている。

 星野さんは、この系譜が奇異なものだと指摘する。

武内宿禰の後裔氏族を巨細に及んで拾載し、また蘇我氏同族とされる平群・葛城両氏まで立入っておりながら、石川氏については、彼の仕えた天皇の名と達し得た官位名を記すに過ぎない。

「系図」のこの様な外見的特徴は、彼の造作に際しての態度あるいは方針等の在り方に疑いを生じさせる。

ということでるる史料検討を行い。

「系図」の原型は、やはり10~11世紀の交に成り、その後何らかの事情で放置され、14世紀の末頃ふたたび取り出されて補注が施されたのであろう。

と結論づけている。

まぁその辺はこの論文のテーマではあっても、こちらの主目的ではないので、読み飛ばす。


どちらにしても蘇我高麗は登場してこない。「馬の骨」扱いである。満智は「検校」止まりの人で、とうてい王に連なる存在としては扱えない。どうしても我々は韓子を「蘇我家」の血筋の本貫として考えざるをえないのである。