1.大化の改新か乙巳の変か

最近の日本史の教科書には、大化の改新という言葉はない。乙巳の変という呼び方に統一されつつある。

その場合は、本格的な改革は壬申の乱に勝利した天武によって行われたというニュアンスが強く打ち出されているようである。

以前書いたように、私は天智・天武というのはタッグを組んで蘇我を滅ぼしたのだろうと思うし、それは壬申の乱の直前まで一貫していたと思う。

そして、天智の周囲が天武を排斥しようとしたとき、天武は天智の考えを引き継いで反乱を起こしたと考える。その理由は対百済・新羅というよりは対唐関係にあり、難波津にとどまって強談判を迫る唐の使節との対応にあったと思う。

2.今までの教科書では対唐強硬主義が説明できない

大和政権には百済との浅からぬつながりはある。しかし朝鮮南部の利権に関しては関係ない。

今はなき九州王朝には経緯はあったにせよ、それは過ぎた話だ。新羅とも基本的な敵対関係はない。

とすれば船・兵を送ってまで朝鮮の戦いに介入したのはなぜか、それは唐が侵略してきたからである。新羅は唐に服従したからこそ問題になるのであって、そうでなければ新羅と百済がどう戦おうと、どちらが勝とうと関係ない話なのだ。

大和政府が防人を動員し、北九州海岸の防御を固めたのも、唐が攻めてくるという恐怖感のなせる業であったろう。

3.天武はポスト天智政権に怒ったのだ

となれば、唐の使節が難波津に押しかけて、対新羅同盟を迫ったとき、どうすべきかという選択はあまりにも明白なはずだ。

それなのに、天智天皇の周囲は唐の使節を恐れ何も出来ないまま固まってしまった。

これでは、百済を抑えた唐がその勢いで日本にも屈従を強いるのは明らかだ。

だから天武は対唐自主路線を主張したのだ。

以上のように考えてくると、大化の改新から白村江の戦い、そして壬申の乱という流れは、対中国路線を巡る対立という図式で説明できる部分があるのではないか。

以上のような視点から大化の改新前後の状況を見直してみたい。

4.過去記事について

去年の今ごろ、私は壬申の乱絡みで3つの記事を書いている。これが今回の勉強の出発点だ。

最初が 7世紀の年表で、これは一度書いた後3月に増補している。

この時点では、まず勉強という程度で、深く考えていたわけではなかった。

増補の作業を終えた時点で書いたのが、 2015年03月16日 であり、これは天智・天武一体説ともいうべき視点の打ち出しだ。

そしてその後、 2016年05月15日 で、さらに考えが変わった、というか深まった。

5.天智・天武路線の本質

天智・天武路線というのが何かといえば、それは一言で言えば中国主敵論である。そのための「国家動員・統制計画」として大化の改新が位置づけられる。

なぜなら、朝鮮半島で起こった事態の本質は中国による百済支配であったからだ。新羅は戦いの場面で唐と結託することにより生き残りを図ったに過ぎない。

だから唐の力が強大であればあるほど、次に狙われるのが日本であるのは明白だった。

だから、日本は命をかけて国を守らなければならない、というのは天武の思いであった。しかるにポスト天智政権は右往左往するばかりで、ひょっとすると主戦派の天武を売ることで生き残ろうとするかもしれない。

というのが天武の反乱の動機であろう。

6.いわゆる「2つの戦線」での闘い

同時に、政府部内には対中国恭順派の他に、依然として百済再興派や新羅主敵派も根強い。多くの百済からの亡命者を抱えて、その傾向は一層強まる。

「この連中は戦いの妨げになる。もうそういうレベルではないのだ。百済や任那はもう忘れろ、新羅を敵に回すな、新羅を味方にしろ」、というのが正しい戦略だ。

ということで、天武の基本戦略は対中戦争準備論にもとづく新羅との同盟、返す刀で「百済・任那マフィア切り」ということではなかったのか。