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1854年(安政元年)3月20日 イギリス南部のサセックス州アクフィールドに生まれる。11人兄弟の6番目。バチェラー家は、由緒正しい騎士の家系で、父は市長を 3 期も務めた。


1876年(明治9年) ケンブリッジ大学神学部を卒業。東洋伝道の志を持ち英国聖公会宣教会に入会。香港にある宣教師養成のためのセント・ポール学院に入学。


1877年(明治10年) 勉学中にマラリアに罹患、療養のために香港から横浜に移動。

5月 さらに冷涼な北方の地を勧められ函館に転地。ウォルター・デニング司祭の指導を受け日本語の勉強を始める。


1877年 バチェラーが函館で伝道を開始。アイヌ民族の伝道を志す。函館でアイヌ青年と会い、その差別と悲惨な生活の実態を知ったという。函館の町中で偶然アイヌが日本人から非人間的な扱いを受けている現場に出合わせたとの記載もあり。


1878年 札幌に2ヶ月ほど滞在。開拓使長官黒田清隆とも会見。対雁のアイヌ(デンベ)からアイヌ語を習得。年末には函館に戻る。


1879年(明治12年) 信徒伝道者に任命され、函館を拠点にアイヌへの伝道活動を始める。


1879年 アイヌの中心地である胆振の有珠と日高の平取を訪問。平取では、地元長老ペンリウクの下で3ヶ月滞在。これを契機にアイヌへの布教活動を決意する。


1881年 平取に半年間滞在。伝道にあたる。


1882年(明治15年) イギリスに一時帰国。5ヶ月滞在し、ケンブリッジなどで再研修を受ける。


1883年(明治16年) 再び函館に帰任した。


1884年(明治17年)

1月 東京で同僚宣教師の娘ルイザ・アンザレスと結婚した。当時バチェラーが30歳で、ルイザは41歳。

1月 アイヌの生活・風習・文化などを広く紹介した「蝦夷今昔物語」を出版。著者は<函館英国人バチロル>とされる。アイヌの生活・風習・文化などを広く紹介する。

84年 関西へ講演旅行。その後半年をかけて道内各地を伝道旅行。
バチェラーの足跡
              バチェラーの足跡

1885年 平取で禁酒運動を進めたが、アイヌとの関係がこじれ離村。その後、函館を拠点とし全道各地で伝道。


1886年(明治19年)5月、布教活動のため、函館の住居を幌別村(現在の登別市)に移して定住する。ルイザ夫人・養女キンらが同伴。牧場で牛を飼い、農作も展開する。その後6年にわたり、キリスト教伝道やアイヌ語教育を実践。


1888年(明治21年) 募金を募り、幌別で私塾の愛隣学校(相愛学校)を設立する。キリスト教教育を行なうアイヌ学校への発展を目指す。


1888年(明治21年) 札幌にも『愛隣学校』を開設。アイヌ語の読み書きをローマ字で教える。(その後愛隣学校は道内各地に作られた)

1887 年(明治20 年) バチェラーは、本国の伝道教会から、正式にアイヌ民族の宣教師に任命される。


1889年 道庁の依頼を受け、「蝦和英三対辞書」を発刊。


1890年 バチェラー夫妻、英国に半年間滞在。この間にヨハネ福音書、マルコ福音書などのアイヌ語訳を出版。


1891年


1月 バチェラー、北海道禁酒会の要請に答え札幌に移転。自宅でバイブルクラスと日曜礼拝を始めた。並行してアイヌ伝道を展開した。活動は樺太までおよび、樺太アイヌ、ニヴフ、ウィルタにも布教活動を行う。


1891年 平取アイヌとの関係が6年ぶりに修復。平取のキリスト教信者は100名以上に達する。


1892年(明治25年) 札幌聖公会が正式に組織される。バチェラーは伝道の対象を全道各地に拡げていく。樺太アイヌ、ギリヤーク人、オロッコ人も布教の対象となる。


1892年(明治25年) 札幌にアイヌを対象とする無料施療病室を開設する。札幌市立病院の関場院長もボランティアとして診療に加わる。遠方から訪れるアイヌの人々で、診療所はいっぱいになったと言われる。


1895年(明治28年)5月 平取と有珠で自費で教会堂を建設した。平取町本町の教会は現在、「バチェラー保育園」として運営を続けている。

1895年 バチラーがパスポートを申請するが、滞在許可条件を守っていないとして却下される。バチラーは「私には日本人の敵がいる」と語る。


1896年 バチェラーの要請に応え、英国聖公会からエディス・ブライアント看護婦が派遣される。約1年半、札幌でアイヌ語を学んだあと、13年間にわたり平取でアイヌの伝道・医療・教育にあたる。


1897年 有珠のアイヌ豪族・向井富蔵の娘・八重子、バチェラーを頼り札幌に出る。「アイヌ・ガールズスクール」に通う。

1898 年(明治31 年) 札幌北3 条西7 丁目(北海道庁裏)に住宅を新築。ここに離日まで住み続ける。

1899年 「北海道旧土人保護法」が制定される。この頃からバチェラーは政府に協力するようになる。


1903年 北海道の聖公会信徒2895人中アイヌ人が2595人であった。


1906年 バチェラー夫妻、八重子を養子とする。弟の向井山雄にも学資を支援する。


1908年 バチェラー夫妻、八重子とともにシベリア鉄道経由で英国に行く。八重子はカンタベリー大主教から伝道師に任命される。


1912年 バチェラーと八重子、樺太に行き、伝道活動を行う。


1914年(大正3年) 札幌にアイヌの子弟を収容する寄宿舎「アイヌ保護学園」を建てる。


1913年 バチェラー、「アイヌ教化団」を組織し、平取にアイヌの保育園を建てる。

1918年 八重子の弟の山雄、立教大学神学部を卒業しバチェラーの後継者となる。


1917年(大正6年) バチェラーに洗礼を授けられたアイヌ人江賀寅三、札幌でアイヌ語辞典の編纂に協力する。

1920 年(大正9 年) 寄宿舎「バチェラー学園」を創設。アイヌ民族に中学教育を受けさせるために、子供たちを札幌に集める。


1922年(大正11年) アイヌの教育のために、アイヌ保護学園を設立する。


1923年(大正12年) バチェラーは70歳になり、規定により宣教師を退職した。その後も札幌に留まり、北海道庁の社会課で嘱託として働く。


1924年 アイヌの青少年育成の為に『バチェラー学園』(寄宿舎)を設立する。有島武郎、新渡戸稲造らが財政支援。

1927年 余市生まれのアイヌ人詩人、違星北斗、平取に滞在してバチラー幼稚園で働く。2年後に死亡(27歳)


1928年 自叙伝「わが記憶を辿りて」を発表。徳川義親公爵が序文を寄せる。

1931年(昭和6年) 新渡戸稲造を会長とする財団法人「バチラー学園後援会」が出来る。


1936年(昭和11年) 妻ルイザが札幌でなくなる。享年92 歳。遺骨は円山墓地に埋葬される。


1941年(昭和16年)11月 太平洋戦争の直前、バチェラーは敵性外国人として追放させられた(88歳)


1944年 (昭和19年)4月 郷里サセックス州の生家で逝去。91歳であった。