擦文文化

瀬川さんは独特な擦文文化論を展開する。

擦文文化は、650年ころから海を渡り道央低地帯に進出した太平洋岸の「弥生化した縄文人」がもたらしたものだとされる。

彼らは大和国家の側からはエミシと呼ばれ差別されていた。

擦文文化は道央圏を中心に広がったが、日本海側は秋田城の支配のもとにあり、独自の文化は生まれず、青森県で作られた須恵器が流通していた。


非常に説得力がある文章ではあるが、まずはその前に、現在主流をなす擦文文化論をおさらいしておかなければならないだろう。

ウィキペディアから入ることにする。

擦文式土器の流布するのは6世紀後葉から7世紀はじめである。これは大和朝廷で言えば飛鳥時代に相当する。

擦文式土器の技法は、土師器からの強い影響を受けている。擦文式時はその様式から4期にわけられる。

前期 西暦500~650年 続縄文土器の影響が残る時期

中期 西暦650~800年 東北地方の土師器に酷似する時期

後期 西暦800~900年 擦文文化独特の土器に刻目状の文様が付けられる時期

終期 西暦900~1300年 遺跡や土器が次第に減少して編年が困難になった時期

分布は現在の北海道を中心とする地域であるが、終期には青森を中心とする東北北部にも広がったとする意見もある。

擦文人の生活

基本は狩猟・採集社会であった。サケ、マスなどの収穫期には、河口の丘陵上に竪穴住居の大集落を構え、他の時期には、中流より奥に狩猟のための集落を作った。

擦文時代には鉄器が普及して、しだいに石器が作られなくなった。これら金属器は主に本州との交易で入手した。製鉄は行われていない。

擦文文化から本州の人々と同じくカマドが据えられるようになった。

墳墓は東北地方北部の終末期古墳と類似しており、東北地方北部との多様な交流関係が窺える。

擦文文化

瀬川さんは独自の擦文文化論を展開する。

1.擦文文化は、650年ころから海を渡り道央低地帯に進出した太平洋岸の「和人化した縄文人」がもたらしたものだ。

2.彼らは和人の側からは「エミシ」の名のもとに差別され、圧迫されていた。

3.擦文文化は道央圏を中心に広がったが、日本海側は秋田城の支配のもとにあり、独自の文化は生まれず、青森県で作られた須恵器が流通していた。


非常に説得力がある文章ではあるが、まずはその前に、現在主流をなす擦文文化論をおさらいしておかなければならないだろう。

ウィキペディアから入ることにする。

土器の特徴から見た時代区分

擦文式土器の流布するのは6世紀後葉から7世紀はじめである。これは大和朝廷で言えば飛鳥時代に相当する。

擦文式土器の技法は、土師器からの強い影響を受けている。擦文式時はその様式から4期にわけられる。

前期 西暦500~650年 続縄文土器の影響が残る時期

中期 西暦650~800年 東北地方の土師器に酷似する時期

後期 西暦800~900年 擦文文化独特の土器に刻目状の文様が付けられる時期

終期 西暦900~1300年 遺跡や土器が次第に減少して編年が困難になった時期

分布は現在の北海道を中心とする地域であるが、終期には青森を中心とする東北北部にも広がったとする意見もある。

擦文人の生活

基本は狩猟・採集社会であった。サケ、マスなどの収穫期には、河口の丘陵上に竪穴住居の大集落を構え、他の時期には、中流より奥に狩猟のための集落を作った。

擦文時代には鉄器が普及して、しだいに石器が作られなくなった。これら金属器は主に本州との交易で入手した。製鉄は行われていない。

擦文文化から本州の人々と同じくカマドが据えられるようになった。

墳墓は東北地方北部の終末期古墳と類似しており、東北地方北部との多様な交流関係が窺える。

「古墳人」について

瀬川さんの「古墳人」という規定について、どうも誤解していたようだ。

それは、大和系の歴史で用いられる古墳時代とか前方後円墳という言葉から来ているのではない。

もちろん、それとのつながりはあるにしても、直接的には東北地方北部の群集墳を象徴とする文化を指しているようだ。

復元された江別古墳群

江別古墳群は東北地方北部に分布する群集墳と同じ系譜と考えられ、その北限を示す唯一の現存する遺跡です。(江別市郷土資料館)


ということで、

ウィキペディアの解説を通説としてみれば、瀬川さんの論建ては続縄文人の東北進出をふくめ、今のところは「大胆な仮説」にとどまっていると思われる。