前頭葉が数学上達を邪魔する。

大谷さんの資本論草稿を勉強していて、ふと、Begreifen という言葉が気になった。

「概念として把握する」ということだそうだ。これはその存在理由もふくめて理解するということであり、前頭葉の作業だ。

理工系秀才によく見かけるが、方程式をさっさっと導き出して、これで分かったということで次に進んでいく。

たしかにそれでうまくいくのだ。高いビルも高速の自動車も、宇宙ロケットだって作れるし、何も問題はないのだ。

しかし、なにか気持ちとしては落ちていかない。

その「意味」をもとめる前頭葉が、納得していないのである。「なぜそうなるんだ?」と…

小学校4年で早くも算数がわからなくなってきた。たしか二桁の割り算だった。鶴亀算になるともうお手上げだった。しかし問題はその前からあったと思う。

1X1=1 さらに1÷1=1

というのが、納得行っていなかったのかもしれない。

1X0=0 というのはわかるが、それが 0X1=0 と同じだというのがわからない。たんなるトートロジーのようにも思える。

結局擬人化の範疇を越えて、現実世界とは切り離されたところで数学の世界を自分の頭に作り上げなければならないところで、それができずに挫折するのだろう。

数学の世界に前頭葉は不要なのだ。「なぜ?」は不要だ。むしろそれは邪魔なのだ。それを遮断する能力が求められるのだ。

「専門バカ」とはよく言われる言葉だが、専門を究めるためには馬鹿にならなければならないということなのだろう。

と、この辺りは負け犬の遠吠えだが、

子供が指を出して「1本、2本、3本」とやるとき、それは全て自分の右手の指である。

ところが、1+1 をやるときは右手の人差指の隣に左手の人差し指を寄せて、「ほら、2でしょう」とやることになる。

このとき、右手の指でやっていた時とは全く別のシーンが登場する。足される方の1だけがオリジナルの1であり、足す方の1は突然外挿された異種の1なのである。

子供の側からすると、まずこの外挿された指が1であることを認識しなければならない。右手の人差指が1であることは体得しているが、左手の人差し指は左手の人差し指であって1ではない。

むしろ右手の人差指=1という固定概念があれば、左手の人差し指は右手の人差指ではないが故に、排他律に従えば 1ではないのである。

ここでは違うものの中に共通性を見出すこと、同種の概念としてまとめうるものであるという認識が必要となる。

共通性というのは、「同じもの」ではないが「違っているが同じ」ということである。

では「違っているが同じ」と矛盾した表現はどういうことをさすのか、一つは類似性である、「同じ」と感じられるほどに似通っているから、近似的に同じ、大同小異ということになる。

象が一匹、蚊が一匹、さぁ何匹?と言われても、そもそも足すことに無理がある。

つまり、差異性と同質性の認識における統一である。それは「共通するところがある」という発見なしには成立しない。

もう一つは数えられるということである。数えられないものは足し算できない。「気が一つ、水が一つ、全部でいくつ?」と聞かれても「いっぱい」と答えるしかない。

というわけで、足される1と足す1がそれぞれ抽象化できた。それでは足してみる。答えは2となる。

ここで出てきた2という数字はなんだろうか。それは2本の指ではない。1という表象と2という表象の和である。それは全く抽象的な世界で行われたゲームである。その結果はふたたび現実世界に翻訳されなければならない。

たとえば、右手の人指指を描いたカードと左手の人差し指を描いたカードを作って、それを足すと二枚になる。だから指が2本ということなのだ。

ちょっと蛇足になるが、「…足す…は…」という言い方も悪い。最後の「である」が省略された言い方だろうが。英語ではそうは言わない。厳密には 1+1 is 2 ではなく 1+1 equals 2 なのである。もしくは is equal as 2 である。is same as ではない。

イコールというのは等価ということであり、「値」において等しいのである。そこには、足される数と足す数のディスクリート性、異質性の認識がふくまれている。違っているから足せるのである。

指という実体にこだわる限り、1+1は1+1である。指が2本あっても、それを並べただけでは「2本指」という概念は生まれてこない。


あぁ、前頭葉が果てしなき妄想をもたらす。それにのめり込んでいくうちに、授業はどんどん進む。気がついてみると、もうわからないところに行ってしまった。こうして落ちこぼれは生まれていく。