瀬川さんの本で一番ビックリしたのが以下の記述である。

東北は、紀元前1世紀ころから寒冷化により人口密度が希薄化した。それは良いのだが、

4世紀、北海道では続縄文時代後期のはじめ、本州では古墳時代が本格化しつつある頃、

北海道の人々は東北北部に南下していきます。彼らは古墳社会の前線地帯である仙台平野と新潟平野と結ぶラインまで南下しました。
この前線地帯には、幅数十キロにわたって古墳社会の人々と続縄文人が混在する「中間地帯」が形成されました。両者は排他的・敵対的な関係ではありませんでした。

注意しなければならないのは、本州(東北)に住んでいた縄文人は、続縄文人にはふくまれないということだ。彼らがなんと呼ばれるかについては、この文脈上では明示されていない。

おそらく彼らは瀬川さんの言う「古墳人」に抱合されているのだろうと思われる。やはりこの唐突な「古墳人」よりは以前からの言い方である「和人」のほうが、私にはぴったり来る。

つまり「和人」には人種(DNA)としての弥生人、内地縄文人がふくまれているのであろう。そしてそもそも弥生人(現日本人)が渡来人と縄文人の混血なのである。

それはともかく、引用した部分、えらくものの言い方が断定的なのに驚く。「そこまで言って委員会」である。

この引用部分、実は瀬川さんも藤沢さんという方の文章からの引用らしい。

ネット上で藤沢さんの文章を探してみることにする。

瀬川さんの引用元は藤沢敦「古代史の舞台…東北」という文章で、2006年に岩波書店から出された「列島の古代史Ⅰ 古代史の舞台」という本の一節のようである。

急に権威主義になってしまうが、岩波と聞くとさすがに恐れ入ってしまう。

藤沢敦さん。 東北大学のサイトでは55歳にもなっていまだに助手ということで、「教員エレジー」かと思ったが、別のサイトでは東北大学総合学術博物館教授となっていて、「まずまず良かったなぁ」とホッとしている。

倭国の形成と東北

これが近著で、目次を見るとなかなか論争的で面白そうだ。古墳人という言葉を使いたい理由が、東北人の心情としてわかるような気がする。

国立歴史民俗博物館の紀要(2009年)に、「墳墓から見た古代の本州東北部と北海道」という論文の要旨が載っている。

古墳時代並行期においては、南東北の古墳に対して北東北・北海道では続縄文系の墓が作られる。

7世紀以降は、南東北の終末期の古墳と、北東北の「末期古墳」、そして北海道の続縄文系の墓という3つに大別される墳墓が展開される。

つまり、南東北は古墳が終末期古墳になるだけで本質的変化はない。北海道はそのまんまである。

北東北だけが続縄文系から「末期古墳」という異文化に変わるのである。

末期と終末期の違いは分からないが、とりあえず本質的な問題ではない。

北東北でお墓の文化が変わるとき、中に葬られている人も変わるのかどうか、これが最大の問題だろう。ついでに言えば、それがなぜ7世紀なのかも興味ある。

しかしこの「要約」にはそれに対する解答は示されていない。これじゃ要約じゃないじゃん。

最後のフレーズ。

異なる文化間の境界は截然としたラインで区分できない。このことは、文化の違いが人間集団の違いに簡単に対応するものではないことを示している。

よく分からないが、この文章をもって「北海道の続縄文人が津軽海峡を越えて、北東北まで進出した」ということの論拠にはならない。ひょっとすると、瀬川さん言い過ぎているのかもしれない。


墳墓から見た古代の 本州島北部と北海道 の原文が見つかりました。

1.古墳築造域の変遷

《古墳時代前期》

太平洋側では,前方後円(方)墳の分布は,宮城県北部の大崎平野が北限となる。ただし,小規模方墳・円墳は,更に北の迫川流域まで分布し,宮城県域のほぼ全域まで分布する。

《古墳時代中期から後期初頭》

太平洋側では,岩手県奥州市(旧胆沢町)角塚古墳が造られ,分布域が拡大する。

ただし,同時に続縄文文化に由来する,黒曜石製石器の製作とそれを用いた生産活動も活発化しており,古墳分布域の拡大が,続縄文文化の後退を伴う訳ではない。

《古墳時代後期》

6世紀に入ると,古墳築造域は大きく後退する。太平洋側では,宮城県南部の阿武隈川下流域まで古墳分布は後退する。

仙台平野と大崎平野では古墳と続縄文系の墓との,折衷形式の墓が出現する。

《終末期》

7世紀に入ると,古墳築造域は再度拡大する。同時に,竪穴系埋葬施設は姿を消し,横穴形埋葬施設だけとなる。

太平洋側では,前期と同じく,宮城県のほぼ全域に古墳築造域が拡大する。

古墳築造域の広がりは,角塚古墳を除くと前期が最も広い。古墳築造域が拡大していく訳でもなければ,一度確立した古墳築造域が安定して維持され続ける訳ではない。

border

何やら複雑な絵でよく分からないが、境界線が宮城県でずっとウロウロしていること、日本海側はなかなか曖昧なことがわかる。

2. 続縄文系の墓

《初期の例》

弥生時代末に北東北に続縄文文化が拡大した。

古墳時代前期(西暦200~250)には、続縄文文化に由来する,平面形が楕円形を基調とする墓が,北東北にも見られるようになる。

そうなんだ。つまり東北の縄文人には続縄文文化はなかったのだ。それが西暦200年ころから出現するようになったのだ。それは少なくとも、続縄文文化を担う北海道の縄文人が影響を与えたとする以外には考えられないのだ。

《古墳時代中期》

副葬される土器に占める土師器・須恵器の割合が増大し、北海道系の土器はほとんど見られなくなる。

《7世紀以降》

続縄文系の墓は見られなくなる。代わりに「末期古墳」が造られる。

北海道では,7世紀以降も,続縄文系の墓の系譜に連なる墓が造られ続ける。しかし8世紀には,「末期古墳」に類似する周溝をめぐらすようになる。

3.末期古墳

「末期古墳」は,7世紀初頭に出現し,9世紀まで造られ続ける。北東北3県に普遍的に分布するほか,宮城県最北部の迫川流域・北上川下流域にも分布している。

さらに,北海道の道央部の石狩低地帯に分布し,「北海道式古墳」と呼ばれてきたものは,北東北の「末期古墳」と基本的に共通する。

「末期古墳」の様相は,倭における後期から終末期の小規模円墳との共通性が強い。そのため「末期古墳」は,倭の古墳の強い影響のもとに成立したと考えられる

しかし倭の古墳に顕著な,被葬者相互の階層的関係を表現するという社会的機能が,「末期古墳」ではほとんど見出せない。

4. 墳墓を中心に見た異文化間関係と境界 

《古墳時代前期》

北上川中流域から大崎平野に至る南北約60kmの範囲で,古墳文化と続縄文文化の考古資料が相互に入り組んで分布する。

混住帯の幅広さは両者は排他的な関係にはないことを示す。

《古墳時代中期から後期初頭》

角塚古墳が北上川中流域に造られ,古墳分布が拡大する。土師器を伴う方形竪穴住居が,大崎平野や角塚古墳周辺に出現する。

古墳文化と続縄文文化の境界はさらに不明確となる。

角塚古墳に示される政治的関係は,続縄文文化に伴う経済的関係を組み込み,それに支えられていたと考えられる。

《古墳時代後期》

古墳分布域は後退する。仙台平野や大崎平野では,古墳と続縄文系の墓の折衷型式の墓が出現する。

《7世紀初頭以降》

北東北が農耕を基盤とする社会へ転換していった。ただし,大崎平野から仙台平野にかけての地域では,南東北と北東北の様相は混在し,その中でも北へ行くほど,北東北の様相が強い。

そこに刺さりこんで、差別をもたらしたのが大和王朝である。

大和政権から律令国家へ至る中央政権は,仙台平野以北の人々を蝦夷として異族視していく。そして,蝦夷に対する支配機構である城柵が,仙台平野以北に造られていく

最も違いが不明確なところに,倭人と蝦夷の境界が置かれた。これが北東北の「末期古墳」と北海道の続縄文系の墓という違いを生み出した最大の理由である。

「末期古墳」は北海道にも分布する(北海道式古墳)。道央部においては,続縄文系の墓と「末期古墳」が,地域においてのみならず,同じ遺跡の中でも混在している。両者を截然と区分できる境界は存在しない。

5.おわりに

古代律令国家は、「蝦夷」や「粛慎」を截然として“他者”と認識した。その結果として、これら人間集団を他人視する傾向が生まれ、続けられてきた。

しかし、異なる文化間の境界を截然としたラインで区分できないことは明らかである。文化の違いは人間集団のDNAの違いに簡単に対応するものではない。

そもそも「蝦夷」や「粛慎」という他者認識と表裏一体の関係にある,「倭人」あるいは「日本人」という自己認識が、鋭く逆照射されなければならない。

最後の指摘はきわめて重要である。