砂沢遺跡の意味するもの

砂沢遺跡は弘前市の北はずれ、岩木山の東麓にあたる。昭和62年に弥生時代前期(2300年前)の水田跡が見つかった。

近隣の田舎館村垂柳遺跡からは、弥生時代中期の水田跡が発見されており、この時代に津軽平野で水田耕作が行われていたことは確実となった。

これら水田は紀元前1世紀には寒冷化のため放棄された。弘前で水田が復活するのは6世紀まで下る。

同時に出土した遺物は「砂沢式」と呼ばれ、弥生式のスタイルを受け入れつつも、基本的に縄文後期の様式を示している。
このことから縄文人が渡来人の技術を受け継ぎ水田耕作を行ったことは確実である。


   砂沢の土器、縄文と弥生の両方の様式が混合する

砂沢土偶
  砂沢で発掘された中空土偶はもろに縄文


つまりだ。

縄文人が弥生人に同化せず、服従もせず、彼らの文化をそっくり保持しながら、水田耕作を行ったということだ。

これを敷衍すれば、

縄文人が縄文人でありつつ、和人の支配を受けずに前方後円墳を作るのもまったく可能だということだ。

さらに敷衍すれば、弥生時代とか、古墳時代とかいう時代区分は、こと縄文人にとっては意味が無いということだ。