日本書紀の景行紀に肥後(熊襲?)討伐作戦が延々と展開されている。豊後の国風土記にも、それの簡略化された事項が記載されている。
日本書紀の編纂と風土記はほぼ並行して進められており、豊後の国風土記の史実としての先行性は認めがたい。
風土記の編纂は太宰府の指示の下に進行されたと言われており、日本書紀の記録も豊後の国風土記の記載も、大宰府に存在した資料に基づいているものと思われる。大宰府の役人がそれを用いて九州を景行天皇一色に染めようとしたのであろう。
これは九州王朝による火の国征討作戦である。大和政権が景行天皇の時代に豊後に上陸して阿蘇の山並みを超えて肥後を目指したという蓋然性は低い。
筑紫王朝が肥後を征討するため豊後周りの迂回→側面攻撃作戦を取るというなら理由はよく分かる。
まずは日本書紀の記載を見ていこう。


碩田國の速見邑に入った天皇の一行を村長の速津媛(はやつひめ)が迎える。彼女は近くの「鼠の石窟」に白と青という土蜘蛛が潜んでいると讒言。また直入郡禰疑野(ねぎの)にも打猿(うちざる)、八田(やた)、国摩侶(くにまろ)という3人の土蜘蛛がいる。是の五人は強力で、また衆類も多く、皇命に従おうとしない。

進軍を妨げられた天皇は、来田見邑に留り陣を設営した。群臣と議りていわく「今多に兵衆を動かして、土蜘蛛を討たむ」と宣言した。

そして民兵を募り武装させ、掃討作戦に乗り出した。

山を穿ち草を排ひて、石室の土蜘蛛を襲いて、稲葉の川上でこれを破った。

「山野に隠れてば、必に後の愁いを為さむ」として、其の輩を殺す。血流れてつぶなきに至る。

と、これが「鼠の石窟」の戦い。次が禰疑野の戦い。

復、打猿を討たむとして、ただに禰疑山を渡る。時に賊虜の矢、横に山より射る官軍の前に流ること雨の如し。天皇、更に城原に返りまして、水上に卜す。

便ち兵を整えて、先ず八田を禰疑野に撃ちて破りつ。ここに打猿え勝つまじと謂いて「服はむ」と請す。然れども許したまはず。皆自ら谷に投りて死ぬ。(まぁ突き落とされたんでしょうね)



という状況で、いずれにしても「流ること雨の如」き矢が浴びせられたというから相当大規模な戦闘だ。天皇軍も一時退却を余儀なくされるほどの激しさだったことが伺える。それとともに、敗残兵を掃討しようとしなかった土蜘蛛側のツメの甘さが印象的だ。
そしてこの戦闘でも、敗れた土蜘蛛は全員が虐殺されている。天皇軍の民衆に対する冷酷さもきわめて印象的だ。