ついで肥前国風土記の話。

瀬川さんは肥前国風土記の中に縄文語(≒アイヌ語)があるといい、それがヴォヴィンの研究の最大の功績だとしている。

もう一つついでに上げるなら、記紀にない景行天皇の九州征服譚が詳述されていることも、肥前国風土記の特徴としてあげられれることが多い。

いずれにしても、いくつか残存する風土記の中でもかなり特異な位置を占める風土記といえるだろう。

まずいちど、「風土記」というものを整理しておこう。

ウィキによると、和銅6年5月(713年)の『続日本紀』に各地の由来をまとめるよう指示した文書が掲載されているという。平城京遷都、古事記完成の直後である。日本書紀の完成はその14年後であるから、風土記の編纂は日本書紀の編纂と平行して行われたことになる。

写本として5つが現存し、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残る。

ほかに後世の書物に逸文として引用された一部が残るが、信頼できないものもふくまれるようだ。

ということで、肥前風土記の記載に入る。

現存「肥前国風土記」の特徴

1.現存の本を簡略版とする見方が有力

2.『日本書紀』などの先行史料の影響を強く受けている

3.景行天皇や神功皇后の伝説と密接な関係にある説話や土蜘蛛・女性賊長にまつわる説話が多く、国名や郡名の由来については簡略に記されているに過ぎない。

ということで、かなりイデオロギー的なバイアスが強いことに注意が必要だ。景行天皇の件については先行する征服譚との習合とも考えられるが、読み方は難しい。

肥前国風土記では景行天皇となっているが、肥後国風土記(逸文)では崇神天皇となっていて、より嘘っぽい。
そこでは、「崇神天皇の頃、益城郡の朝来名峰で土蜘蛛の首魁、打猴・頸猴が180人余りを率いて天皇に背いたので、天皇は健緒組に命じてこれを討たせた。健緒組が八代郡の白髪山に着いたとき、夕暮れ空に火が燃え上がるのを見て、驚いて天皇に報告したところ、天皇は火の国と名付けた」となっている。(仮称リアス式
これだと、天皇は大和から出張ってきたというより、筑紫あたりにましましている感じである。

風土記に頻出する「土蜘蛛」は縄文人との関係で面白い。

おそらく弥生人が水田、縄文人が海と山という形で住み分けしてきたのが、権力による集中支配という形に移行する際に、縄文人が抵抗を試みたのではないかとされる。

しかし、女性(シャーマン?)が族長を務める場合が多いということから、邪馬台国型権力と大和朝廷型政府の衝突の可能性も考えておく必要がある。

以下、脱線して土蜘蛛の勉強に移ろうと思う。