2.MEGA版での扱い

省略

3.若干の基本的なタームについて

 

(2) 貨幣資本と利子生み資本は同義か?

マルクスは,一見すると,「利子生み資本」と「貨幣資本」とを同義としているかのように見える。

資本家や実務家や経済学者が「貨幣資本」と呼んでいたものが何なのかという疑問から、マルクスは出発する。そして、その本質から見て利子生み資本(高利資本)に他ならないと判断する。

彼らは信用制度のもとでの貨幣市場に大量の供給として現われ,大量の需要に相対する資本として、貨幣資本を捉えていた。

それは信用制度の下での「利子生み資本」の具体的形態にほかならない、とマルクスは見た。

貨幣資本(貨幣市場での利子生み資本)は、現実に次のような姿態をとる。

まず、貨幣資本は共同的な要素として現れる。貨幣資本はそれぞれの部面の生産上の要求に応じて,資本家階級のあいだに配分されるのである。

それは大工業の発展につれて、社会的資本を代表する銀行業者の統制のもとに集中され、組織されるようになる。

そして貸付・可能な資本の大量のマスとなるのである。

したがって「貨幣資本」という言葉は、信用制度のもとでの貨幣市場での利子生み資本を意味していることになる。

以下、大谷さんは草稿とエンゲルス版の関係について整理する。

草稿第5章の「5)信用。架空資本」では,「利子生み資本」の概念はすでに与えられており,利子生み資本は信用制度のもとでの利子生み資本として現われる。

それを本格的に論じるのは,マルクスが I),Ⅱ),Ⅲ) という項目番号をつけた部分である。

その前段として信用制度の仕組みとその意義とを明らかにしているが、その部分が、エンゲルス版第25章の最初の部分と第27章とに利用されている。

それは信用制度の本格的な分析ではなくて,信用制度下の利子生み資本を論じるための準備的考察である。

1)~4)節で利子生み資本の概念的把握を終えたあと、5)で信用制度下の利子生み資本を論じようとするのであるが、その前に信用制度を準備的に考察して置こうというのが、 I),Ⅱ),Ⅲ) 項に入る前の前段の意義である。

しかし I) 項は実際には利子生み資本には入っていない。ここは「なお若干のとくに経済学的な論評を行なわなければならない」ということで書き加えられた部分である。したがって、もう一つの前段ということになる。

信用制度下の利子生み資本を論じるのはⅡ),Ⅲ) 項ということになる。

 

(3)貨幣資本(monied capital)と貨幣資本(Geld capital)

マルクスの草稿では,信用制度下の利子生み資本としての貨幣資本には圧倒的にmonied capitalという英語表現のタームが使われ,それにたいして資本の循環形態としての貨幣資本にはほとんどGeldcapitalというドイツ語のタームが使われている。

貨幣資本には架空の(名目的な)貨幣資本がふくまれる。すなわち、有価証券のように確実な収益にたいする支払指図のばあい、株式のように現実の資本にたいする所有権原のばあいである。

同一の資本や同一の債権が,さまざまな手のなかで,さまざまな形態をとって現われる。そうすると,すべての資本が2倍、3倍になるように見える。

 

(4) 貸付可能な資本あるいは貸付可能な貨幣資本

貸付可能な資本〔loanableCapital)も貸付可能な貨幣資本〔loanable monied Capital)も頻出する用語である。

貸付可能な資本〔loanable Capital〕の蓄積こそは,われわれがここで取り扱わなければならないものである。そこには国債、株式その他の各種の有価証券がふくまれる。

信用システム〔Creditsystem〕の発展している諸国では,貨幣資本は,すべて銀行業者および貨幣貸付業者〔money lenders〕のもとに預金の形態で存在する。

貸付可能な資本の大きさは通貨〔Circulation〕の量とはまったく異なるものである。

貸付可能な資本の蓄積が,現実の資本蓄積を示すわけではないことは明らかである。

生産規模が同じままであるかぎり,それはただ,生産的資本に比べての貸付可能な貨幣資本の過剰をもたらすだけである。

全体として見れば,貨幣資本の運動(利子率に表現されるそれ)は生産的資本の運動とは逆なのである。

貸付可能な貨幣資本への貨幣の転化は,生産的資本への貨幣の転化よりもはるかに簡単である。

貨幣資本の蓄積は現実の蓄積にはまったくかかわりなく,たんなる銀行制度の拡張や通貨準備〔currencyReserve〕の動員によっても行なわれる。

支払手段の準備ファンドも、短期間ならいつでも貸付可能な資本〔loanablecapital〕に転化されうる。

こうして貸付可能な貨幣資本は現実の蓄積からはまったく独立に増大する。

利子はただ平均利潤の一部分でしかない。同じ資本が二重の規定で現われるのである。すなわち,貸し手の手のなかで貸付可能な資本として現われ、機能資本家の手のなかでは産業資本または商業資本として現われるのである。

貨幣市場〔moneymarket〕では、すべての貸付可能な資本がつねに総量として機能資本に対立している。貸付可能な資本の供給と需要がそのつどの利子率の市場価格を決定する。

従って、利子の市場率はたえず動揺する。それは,商品の市場価格と同様に,各瞬間に固定的な大きさとしてつねに与えられている。

信用制度の発展は、貸付可能な資本に一般的社会的な性格を与えるようになる。

貨幣資本(貨幣市場での資本)は現実に次のような姿態をもっている。

* 貨幣資本は共同的な要素として,個別部面の生産上の諸要求に応じて,資本家階級のあいだに配分される

* 貨幣資本は、大工業の発展につれてますます集中され組織される。そして社会的資本を代表する銀行業者の統制のもとに、現実の生産とはまったく違った仕方で現われる。

* 貨幣資本は、貸付可能な資本の大量のマスとして貨幣市場に登場する。それには一階級(産業資本家と商業資本家)全体の需要という重みが相対している。

 

マルクスは当初、「貸付可能な貨幣資本」という言葉を重要な概念とは考えていなかった。

① 最初にこの言葉を使ったのは、ラムジからの引用である。このときは銀行業者らのつかう「月並みな文句」と考えられていた。

② ところが貨幣資本を論じる内,貨幣資本が貸し手のなかでは「貸付可能な資本」として現われていることが認められる。

③ そのうち、「利子率はloanableCapitalの需給によって決まる」ということが積極的に述べられるようになる。

④ さらに「貨幣市場にある資本すなわち貸付可能な資本は需給関係を決める一方の要素であることが確認される。

⑤ 最後に,「貸付可能な資本」こそ,「貨幣市場での資本」である貨幣資本が現われるときの姿態であることが示される。

ただしこの過程は、すでに「1861-1863年草稿」のなかで確立されている。

「1861-1863年草稿」ではこう書かれている。

蓄蔵貨幣は,鋳貨の準備ファンドとして機能しないかぎり,蓄蔵貨幣そのものに過ぎない。それは凝固し自立化し保存された商品であった。

しかし,資本にとっては遊休資本…自己自身で価値増殖できずに貨幣の形態で遊休している資本である。

貨幣蓄蔵者と妄想をともにしない資本家にとっては,資本のこの遊休形態は不生産的資本である。

利潤をもたらす資本として使う必要がなければ,少なくとも利子生み資本に転化されるべき資本である。つまり貨幣資本として市場にある貨幣なのである。

 

貸付可能は貨幣資本は、広義の「貨幣資本」のうち,貨幣市場で需要に対する供給として現われる。

貸付可能貨幣資本のかなりの部分は架空なものである。それは価値ではなく、価値への権原である(それは価値商標たる紙幣と同様である)。

 

(5) 現実資本,実物資本,再生産的資本,再生産過程

エンゲルス版では「貨幣資本と現実資本〔wirkliches Kapital〕」という表題がつけられているが、実はマルクスは「現実資本」という言葉をほとんど使っていない。

草稿での「現実資本」の出現箇所

事業,鉄道などにたいする所有権原は,たしかに現実資本にたいする権原ではある。とはいえ、この資本にたいする処分権を与えられたものではない。この現実資本が生産した剰余価値の分前にたいする権原にすぎないのである。

それは積荷証券が,積荷とは別個に,あたかもある価値を与えるかのようである。

現実資本はそれらとは別個に存在している。これらの複製が持ち主を換えても、現実資本の持ち主は変わらない。

「現実資本」は,「架空資本である利子生み証券」に対置するために用いられている(だけである)。

それでは、貨幣資本との関連が問われる場合はどのような言葉が使われるか。それは「実物資本」(reales Capital)である。しかし実際には「生産的資本」および「商品資本」が用いられることが圧倒的に多い。

同じようにエンゲルス版に頻出する産業資本という言葉もエンゲルスの造語であって、マルクスは「生産的資本」と表現している。

マルクスは冒頭で,貨幣資本(moniedcapital)と貨幣量との関連について問題を立てながら,それについて未解答のままこの「Ⅲ)」を終えている。

エンゲルスは,彼の第30-32章では残されたままになっている貨幣資本と貨幣量との関連の問題についても論じられなければならないと考えた。

そして「混乱」および「[混乱。続き]」のなかから、彼がそれに関わると判断した部分を集め,「第33章信用システムのもとでの流通手段」および「第34章通貨主義と1844年のイギリスの銀行立法」の二つの章をまとめた。

一口に「貨幣の量」と言っても,さまざまの貨幣量が考えられる。

広義の流通手段(フロー)として民間に存在している貨幣の量がある。それは,具体的には鋳貨の準備ファンドおよび支払手段の準備ファンドとして存在している。

もう少し狭く採れば、蓄蔵貨幣(ストック)として生産者や商人の手もとに,あるいは銀行の金庫に遊休している貨幣の量がある。

草稿では、通貨の量はすべての銀行券と地金のことだとしている。現在では地金の量は相対的に無視できるので、日銀券の発行残高(マネタリー・ベース)と考えて良いだろう。

貨幣資本〔monied capital〕の量は通貨〔Circulation〕の量とは異なる。貨幣資本の量は通貨の量からは独立して変動するものである。

 

(7) 商業信用と貨幣信用

Ⅲ) での考察の対象は「信用制度」そのものなのか,それとも「信用制度のもとでの利子生み資本である貨幣資本」なのか。

Ⅲ)では,「信用」はすべて「商業信用」を意味している。銀行業者の信用はふくまれていない。銀行業者の信用は「貨幣信用」という言葉が用いられている。

現行版25章冒頭では、「われわれはただ商業・銀行業者信用だけを取り扱う」となっているが、草稿では「われわれはただ商業信用だけを取り扱う」となっており、銀行業者信用が付け加えられている。

商業信用についても、Ⅲ)までのどこかで,「再生産で仕事をしている資本家が互いに与え合う信用」についてさまざまに説明した後、これを「商業信用」と呼ぶことにし,そこではじめて実際に,この語をその意味で使うのである。

商業信用とは「再生産的資本家たちが互いに与え合う信用」のことであり、徹頭徹尾,再生産過程の内部での現実資本相互の関わりである。

「純粋に商業的な」という語は,けっして「生産的」または「産業的」にたいするものではなく,「貨幣的」ではないという意味である。

商業信用と結びついた還流の順調さは,貸付可能な資本〔loanableCapital〕の供給を,それへの需要の増大にもかかわらず,確実にして,それをその水準に維持する。

低い利子率は,商業信用がわずかな度合いでしか貨幣信用〔moneyedCredit〕を必要とせず,まだ曰立していることを表現している。

他方では,準備資本なしに事業をやる騎乗者(相場師)たちが,目につく程度に入ってくる。

バブルの説明

生産的な蓄積とは関連しない貨幣資本の蓄積(過剰)が生じることがありうる。

生産的資本が収縮している局面では、以前は稼ぎのある事業〔active business〕で充用されていた貨幣資本が、遊休した貨幣資本〔unemployed monied Capital〕として現れる。それは生産的資本の停滞を表現している。

もう一つは景気の回復局面である。好転は始まってはいるが、まだ商業信用が貨幣信用〔moniedcredit〕をほとんど必要としない。生産的資本家は貨幣資本家に条件を指定するため、利子率は低くなる。

「銀行信用」はけっして銀行業者の信用すなわち銀行業者が与える信用ではなくて,預金という銀行業者が受ける信用のことである。

 銀行業者が与える信用はさまざまな形態で,たとえば,銀行業者手形,銀行信用〔Bankcredits〕,小切手,等々 と、二義性を持っているので使わない。

 「商業信用」は徹頭徹尾,再生産過の内部での現実資本ホM:の関わりであり,貨幣資本(mon118iedcapital)|こたいする現実資本の運動に属するものであること,「純粋に商業的な」という語は,けっして「生産的」または「産業的」にたいするものではなく,「貨幣的〔monied〕」にたいするものである,ということである。

この場合の「前貸」は,それ自体としてはけっして利子生み資本の運動形態としての「貸付」を意味するものではないのである。

 

 (8)信用システムと信用制度

a.信用システム(Kreditsystem))

 債務の蓄積が資本の蓄積として現われうるというこの事実こそは,信用システムにおいて生じる歪曲の完成を示す

 商業信用は,信用システムの土台をなしている。この信用システムは,現金支払をする必要をなくしてしまうものではない。

信用システムの発展している諸国では,貨幣資本は〕は,すべて銀行業者および貨幣貸付業者のもとに預金の形態で存在するものと想定することができる。

実体的富の増大につれて,貨幣資本家のI偕級が増大する。というのは,利子で生活する引退したgreengrocerの数が増加し、,それとともにまた銀行業者などが増加する。

信用システムは,貨幣システム(Geldsystem)の上に築かれて,それが十全に機能しているときには貨幣システムに対立して貨幣システムにとって代わるようにさえ見えるが,しかし結局のところ,それは発展した貨幣システムにほかならないのであって,けっして貨幣システムから自らを解き離すことができない。

生産者や商人のあいだで行なわれる相互の前貸は信用制度の本来の基礎をなしている。

それと同じように,彼らの流通用具である手形は、本来の信用貨幣(銀行券)の基礎をなしている。

すなわち,これらのものの土台は貨幣流通(金属貨幣であろうと国家紙幣であろうと)ではなくて,手形流通なのである。

これに対し信用システムは近代的銀行制度であり信用・銀行制度である。

銀行業者が与える信用はさまざまの形態で,たとえば,銀行業者手形,銀行信用〔Bankcredits〕,小切手,等々で,最後に銀行券で,与えられることができる。銀行券は,持参人払いの,また銀行業者が個人手形と置き換える,その銀行業者あての手形にほかならない

銀行券を発行する主要銀行は,国立銀行と私立銀行との奇妙な混合物として事実上その背後に国家信用をもっていて,その銀行券は多かれ少なかれ法貨でもあるからである。

銀行業者にとって,預金の形態にある貸付可能な資本は,それが現金で預金されることによって形成されたものであろうとも,他人から受けた信用なのである。

このような「信用での取引」の外部にあって,その基礎となるものが,信用制度の理論的前提であり,歴史的先行者であって,それ自身は信用制度を前提しない,実物資本相互間の商業信用なのである。

b. 信用制度〔Kreditwesen〕

 ここまで、信用システムと信用制度との区別と関連を見た。

こんどは「信用制度〔Creditwesen〕」というタームを使っている箇所を見よう。

①「利子率の長期にわたる変動は一般的利潤率の変動によって制約される。国の相違による利子率の相違は、利潤率と信用制度の発展とにおける相違によって制約される。

②生産的資本家が行なう蓄積は実体的なものである。それは再生産に向けられる資本の諸要素について行なわれる。
これにたいして,貨幣資本家が行なう蓄積は、直接にはつねに貨幣形態でイテなわれている。
だから,信用制度の発展や貨幣業務の巨大な集積(すなわち貨幣資本家による蓄積)は,現実の蓄積とは異なった形態として促進される。

③(貨幣)資本の蓄積は,現実の蓄積の所産であるにもかかわらず,それとは区別される特殊な形で現れる。
この特殊的部類の資本家の蓄積は,現実の再生産過程の拡大に伴って信用制度が拡張されるごとに増大する。

④(当座預金は)だんだんと(再投資のために)消費されて行くが,そのあいだは預金として銀行業者のもとで貨幣資本を形成する。
だから,信用制度とそれの組織との発展につれて,消費の増大さえも貨幣資本の蓄積として表現される。

⑤貨幣資本の蓄積は現実の蓄積からは独立しているが、それに随伴する。様々な理由でそれは現実の蓄積を超えて膨張する。
だから循環の局面ではつねに貨幣資本のプレトラが生じる。信用制度の発展につれて,このプレトラは発展し、生産過程をそれの資本主義的諸制限を乗り越えて駆り立てる。
それが過剰取引,過剰生厳,過剰信用を発展させることになる。

⑥同じ額の貨幣が、何度貨幣資本として役立ちうるかは,諸支払の節約に,すなわち信用制度の発展および組織化にかかっている。

⑦信用制度の発展につれて,ロンドンのような集中された貨幣市場が創造され,それが同時に,これらの証券の取引の中心地にもなる。

以上の用例のように、この「Ⅲ)」では信用制度そのものが論じられているのではなく、信用制度のもとでの利子生み資本すなわち貨幣資本が論じられていることがわかる。

(9)残された問題

以上,「Ⅲ)」に登場する基本的なタームを見ることで、内容を解題してきた。

「残された問題」はこの草稿の完成度の評価であろう。

マルクスは次のように問題を提起している。

「さて,二つの問題に答えなければならない。第1に,貨幣資本の蓄積は,生産的資本の蓄積とどのような関係にあるのか?
第2に,それは,なんらかの形態で国内にある貨幣量とはどのような関係にあるのか?」

ここまでのところでは、まだこの二つの問題に答え切っていない。その意味では,この「Ⅲ)」(第30-32章:貨幣資本と現実資本)では,最終的な解答が出され・ていないと見るべきであろう。

このように,提起した問題に総括的なまとめも与えずに終わっているということは,「資本論』の第三部がきわめて未完成のものであることを意味している!

われわれは,マルクスが成し遂げた貴重な分析の成果を読み取るだけでなく,マルクスが残した問題をも読み取って,それを解決する努力をすべきであろう。

マルクスは,「資本論」第2部の全体を書き直す努力を続け,第8稿にいたるまでの膨大な草稿を書き続けた。
第3部第1稿の第5章は,これらの仕事のまえに終えられたものであり,その成果を反映していない。

第3部第1稿の第5章の到達点と限界を知るためには,マルクスが第2部第1稿を完成して以降,第8鎬までの間に、どのような問題をどのように解決したかを知らなければならない。

それによって「Ⅲ)」の部分で残された問題をどのように展開すべきかについて手がかりを得ることができるであろう。

とりわけ再生産過程における貨幣の規定'性(流通手段および蓄蔵貨幣)の転換の問題,蓄積ファンドの積立と投下,固定資本の償却と更新,可変資本前貸における貨幣還流の独自性などが問題になるだろう。

また産業循環との関連では,蓄積率の変動に伴う実物資本の需給の変動が貨幣資本の需要に及ぼす影響の問題などもある。

マルクスは「信用論」を資本論の対象の枠外と考えていた。
『資本論』での「利子生み資本論」を理論的前提にして,「信用」についての「特殊研究」が行われるべきだということである。
それでこそ,「貨幣資本論」を含む信用・銀行制度そのものの立ち入った研究が行なわれうる。(ヒルファーディングの仕事を指すのか?)

とりあえず、以上