戦後の日本人慰安婦(パンパン)

引き揚げ、浮浪児と扱ってくれば売春婦の問題もどうしても扱わなければならない。

比べてはいけないのだが、それは韓国の従軍慰安婦の数よりはるかに大規模で深刻な社会問題だった。にも関わらず、そこには同情よりも反感を含んだ沈黙が支配していて、今や闇の底に沈んでいこうとしている。

客観的な事実をしっかり踏まえた上で、安易な感情に流されず、かつ目を背けないようにしなければならない。

まずは例によって年表形式で(差別用語とされているものも使うことになる)

1945年

8月18日 内務省が「外国駐屯軍慰安設備に関する整備要項」を各県に行政通達。

9月 特殊慰安施設協会が朝日・毎日新聞・東京新聞に連日の募集広告。「国家的事業ニ挺身セントスル大和撫子ノ奮起ヲ確ム」との内容。

公的指定を受けたRAA(Recreation and Amusement Association)では5万3000人の女性が働いていたとされる。(非公式の推計)

1946年(昭和21年)

1月 東京でMPが「狩り込み」(売春女性の検挙)をはじめる。

3月 連合国軍東京憲兵司令官が「オフリミッツ令」を発する。RAAが廃止される。

その後も1947年に283人、1948年に265人、1949年に312人の占領軍兵士による日本人女性の被害届けがだされている。

11月 板橋事件が発生。MPと日本の警察が通行中の女性を無差別に逮捕して膣検査を行う。

1947年 田村泰次郎の小説『肉体の門』が発表される。

8月 賀川豊彦、『婦人公論』に寄稿。「闇の女に堕ちる女性は、多くの欠陥を持っている」とし、パンパンは「一種の変成社会における精神分裂病患者である」と書く。

1948年 溝口健二監督の映画『夜の女たち』が上映される。

1950年 朝鮮戦争が始まる。日本人慰安婦も朝鮮半島へ連れて行かれたとされる。在日米軍将兵を相手とする街娼は15万人に及ぶ。


ここまで書いただけでも、問題は相当複雑だということがわかる。

1.きっかけは内務省筋で、婦女が危険な目に合わないように、占領軍に前もって女をあてがえという考えだ。

2.しかしその手の女性では到底足りないだろうと、素人女性を騙してその務めに当たらせようとした。ここにすでに階級的視点が露骨に示されている。守るべきは「良家の子女」であり、普通の市民はそのための「醜の御楯」でしかない。

3.占領軍はそれを黙認するどころか督励さえした。そして黒人用、一般兵士用、高級将校用(すなわち自分オンリー用)に分けるようもとめた。内務省は得々としてそれに従った。最近の流行り言葉で言えば“忖度”したのである。

4.にも拘らず、米軍兵士の性欲はそれで押しとどめられるものではなかった。各地で目を覆うような性犯罪が続発した。そして民衆は目を覆ったのである。事件の殆どは闇に葬られた。

5.MPはこれらの暴行に対して見て見ぬふりをした。そして兵士が性病にならないようにのみ意を尽くした。板橋事件は日本人女性をすべからく潜在的性病患者と見ていたからこそ発生した。イスラム教徒ならテロリストだと見る昨今の風潮に通じる。瑞穂の国に性病を持ち込んだテロリストはお前だ!

6.国の施策として、米兵士相手のセックス・ビジネスを展開しながら、日本政府は「醜の御楯」となった大和撫子に対してはきわめて冷淡であった。彼女たちは捨て駒として扱われた。

7.日米両者の密かな育成政策の結果、「需給関係」は徐々に平衡に達するようになった。朝鮮戦争の最中、米兵士相手の女性は10万を超えるほどになった。

8.開き直った彼女たちは、社会のアウトサイダーとして一種の「パンパン文化」を形成した。彼女たちの財力とノンシャランさ、アメリカ文化の威光とは庶民にとってタブーの破壊であり、ある種眩しいものであった。戦後日本の庶民文化を語る上で、彼女たちの存在は避けて通れないだろう。