オホーツク人

アイヌを語る上で欠かせないのがオホーツク人だが、あまり知られていない。というか、私は勉強してこなかった。

Y染色体から見れば、アイヌ人はかなり純系の縄文人だが、ミトコンドリアDNAからすれば、縄文人とオホーツク人の中間に位置するというのが特徴だ。

両者の差は、縄文人がオホーツク人を征服したことを意味する。駆逐したのでもなく、混住したのでもない。

文字には残っていないが、ここが決定的な勘どころだ。


まずはウィキで「オホーツク文化」の記事を読む。

1.「オホーツク文化」の定義

5世紀から9世紀までオホーツク海沿岸に栄えた古代文化。

人骨の遺伝子調査は、ニヴフ人やコリヤーク人との近似性を示す。

『日本書紀』に現れる粛慎と考える見方が有力である。

2.時期区分

土器の特徴にもとづいて初期、前期、中期、後期、終末期の5期に区分される。さらにオホーツク文化に先行するものとして、樺太南西端の「鈴谷文化」(紀元前1世紀~)があった。

前期 5世紀から6世紀。オホーツク海沿岸、樺太の南半分におよぶ。十和田式土器を特徴とする。

中期 7世紀から8世紀。東は国後島、南は奥尻島、北は樺太全域に及ぶ。

後期 9世紀から10世紀。土器の様相が各地で異なる。北海道北部のオホーツク文化は消滅。13世紀には樺太でも消滅。

3.生活

北海道北部と樺太では漁業に、北海道東部では海獣を対象とした狩猟に重点があった。熊などを狩り交易用の毛皮を入手した。

この生活スタイルから考えると、たしかにアイヌとの平和共存は難しい。

4.遺伝子

樺太北部やシベリアのアムール川河口一帯に住むニブフ族に最も近い。

アムール川下流域のウリチ、カムチャツカ半島のイテリメン族、コリヤーク族とも祖先を共有する。

ミトコンドリアDNAのハプログループY遺伝子をもつ。この遺伝子はアイヌ民族の2割に存在するが、縄文人や和人にはない。

人骨の形質学的研究によると、続縄文人や擦文人とは非常に異なった顔かたちをしていたとされる。

5.オホーツク人がいた頃の気候

400年頃~ 恵山グループが急に消失し、後北・江別文化のものが全道に広がってゆく。気候の変化(寒冷化)に伴うと考えられる。

600年頃~ 寒冷期が終わり、徐々に温暖化に向かう。

900年頃~ 温暖期が始まる。東北地方の稲作化が一気に拡大。エミシは狩猟民に特化し、大和政権との交易を拡大。