ゲノム分析から以下の結論が導き出される

①アイヌ人は寒冷期に東北~渡島に下った縄文人、すなわちエミシが再び北上したものである。
②アイヌ人が南下した後の北海道には、北方のオホーツク人、カムチャッカ人が到来し定着した。
③エミシは沿岸部に侵食し、ついで奥地へと分け入った。先住民たるオホーツク人は駆逐されあるいは制圧され、エミシの支配下におかれた。

これについての解釈は別記事を起こすこととする。

としつつ、光合成に埋没してしまったのだが、書棚に積んであった瀬川拓郎「アイヌと縄紋―もう一つの日本の歴史」(ちくま新書 2016年)を読んでみて、意を強くした。

縄文人の起原については細部に異論がないわけでもないが、縄文人再北上説については学ぶものが多い。

以下、該当部分(82ページ~)を抜き出していく。


西暦0年~ 気候が寒冷化。東北北部での水稲耕作が断絶。ほぼ無人の原野と化す。

300年~ 北海道の続縄文人が東北北部に南下。仙台平野と新潟平野を結ぶ線まで進出。「古墳人」との混住ゾーンが形成される。

この結果、続縄文人は狩猟と獣皮の交易に特化した。北海道には鉄器が大量に流入。

300年~ 続縄文人の南下と同時に、オホーツク人がサハリンから北海道に南下。オホーツク海沿岸に広がるとともに、天売、焼尻、奥尻などの島に進出。

450年~ 「古墳人」が混住ゾーンを越えて北上。東北北部(現在の岩手北部から八戸にかけて)に進出する。

岩手北部の中半入遺跡では農耕、馬の飼育が行われ、前方後円墳も作られている。また皮なめしの工房跡も見つかっている。

500年ころ 岩手北部・八戸で、続縄文人の痕跡が消え、「古墳人」の遺構のみとなる

500年~道北や道東のオホーツク人遺跡にも本州産の鉄器が流入する。

544年 日本書紀の記事に粛慎(あしはせ)が佐渡島に来着し、漁撈を営んだとの記載あり。

600年ころ オホーツク人が奥尻島に拠点建設。夏の間漁撈をおこなったとされる。

650年ころ 唐の史料に、流鬼(オホーツク人?)が黒テンの毛皮を献上したとの記載あり。

658年 越の国主の阿部比羅夫が180艘の船で日本海を北上。齶田・渟代(あぎた・ぬしろ)のエミシと戦う。さらに有間浜に進み渡利嶋のエミシを召し集め饗応する。さらに粛慎と戦い、ヒグマ皮70枚を獲得する。

659年 越の国主の阿部比羅夫が二度目のエミシ征服作戦。このとき粛慎と戦い49人を捕虜とする。

660年 越の国主の阿部比羅夫が200艘の船で日本海を北上。北海道に渡り弊賂弁嶋(へろべのしま)の粛慎を撃つ。

瀬川さんは弊賂弁嶋を奥尻としている。青苗にオホーツク人の遺跡があることから、この説は説得力がある。この際、大河は瀬棚に注ぐ後志利別川に比定される。


ということで、ここまでの記述については私のアイヌ年表の方にも組み込もうと思う。

ただ瀬川さんの記述には、時に筆が走り出す傾向があり、ウラが取れていないところもある。

たとえば、北海道の続縄文人が東北に渡ったという記載は、続縄文文化が東北地方に広がったという考古学的事実に基づいていると思われる。しかし、これについては、東北(さらに関東信越)に古来より在住した縄文人との関係がはっきりしないと、かんたんには首肯できない。

また、続縄文人と共存した東北北部の先住民が「古墳人」だとすると、アテルイやエミシたちは「古墳人」だったことになる。そもそも「古墳人」の概念が弥生人との異同を問われることになる。

私は「古墳」とか「古墳時代」という規定そのものに疑問をもっているので、もう少し厳密な用語が必要ではないかと思う。とりあえず、年表では「和人」の言葉を当てたが、生粋の和人から見れば、北海道の続縄文人と交易する「和人もどきの縄文人」だった可能性もある。

言語学の問題は深入りしないほうがいいと思う。「タミル語起源論」みたいなところに入り込まないよう、目下のところは「お遊び」くらいに突き放しておいたほうがいい。

とはいいつつも、DNA解析を基礎に据えて、これまでの常識にチャレンジしていく瀬川さんの姿勢には、強い共感を覚えるところがあり、さらなる理論の発展を心から期待する。