継体天皇

wikipedhia より

1.生没に関して

生年は485年となっている。即位507年も信用出来ない。没年は531年とされておりこれはかなり信用できる。没年がはっきりしている天皇の初代は継体であり、それ以前の25人は存在すらも不明確。

上記は生没とも日本書紀によるもので、古事記では485年の生まれ、527年の没とあり、妥当な数字と思われる。42歳の生涯だった。

名は「をほど」という。

5代前に天皇家から分かれたというが、ほぼ平民と見て良いだろう。しかも幼い時に父を亡くし、福井の母の実家で育てられたというから、冷や飯食い豪族の一人だ。

天皇となる経緯についてはるる述べられている(日本書紀)が、それだけ無理筋の即位だったということが示唆される。(日本書紀は、一方で大伴・物部史観、他方で百済史観が貫かれている。古事記との違いはそこから生まれると思うが、継体記についてはとくに不自然な創話が目立つ)

それらはいずれもどうでもよいことで、すべての焦点は、「をほど」が磐井の君を打倒した当事者だということにある。

この磐井の乱が526年、そして継体が大倭(後の大和国)に都を定めたのが526年。そして翌527年には没していることになる。

2.磐井の乱と「をほど」

日本書紀によれば、「をほど」は百済から請われて救援の軍を九州北部に送った。

そのとき、新羅と結んだ磐井よって反乱が勃発した。「をほど」は反乱の平定に苦心した。

ここで変だと思うのは、「磐井を殺し反乱を平定したのは、「をほど」自身ではなく大伴金村、物部麁鹿火の率いる軍勢だった」という記載である。

どこかの馬の骨を拾ってきて、天皇にでっち上げたのはこの二人であり、「をほど」は二人より年下で、パシリで使われる立場だったと思う。

とすれば、ヤマトに腰を落ち着けているのが二人の大連であり、前線に飛び出して鉄砲玉となるのが「をほど」ではないか。

3.日本書紀の百済史観

もう一つ不自然な話がある。百済から「をほど」に直接支援要請は来ないだろうと思う。むしろ磐井の率いる九州王朝から動員がかかったと見るほうが自然ではないか。

文面通りに読めば、百済と新羅が戦争を始めて、百済が劣勢に陥ったということになるが、これは後の世の白村江の戦闘を下敷きにした筋書きではないか。

むしろ逆に、九州王朝が百済と不和に陥り、新羅と連携を図った可能性もある。そして「をほど」は百済派と手を結んで寝返ったというのが分かりやすい構図ではないか。

磐井の乱の数十年前、倭王武は安東大将軍の地位にあった。たとえ名目上といえども、百済も新羅も統括すべき立場にあったのである。飛鳥期以降のように百済一辺倒ではないはずだ。

4.譲位と死

日本書紀によれば、531年、皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。

これには2つの反論がある。一つは日本書紀の生年が嘘だから、没年も信用出来ないということだ。

古事記に従って527年に死んだということなら、磐井の乱の闘いのさなかに死んだことになる。それを嫌った創話ではないか。日本書紀ならやりかねない。

もう一つの謎は、日本書紀が引用している百済本記だ。

おそらくその後の天皇について、年数が確定出来たのは百済本記があったからであろう。自虐史観ではないが、この頃の大和王朝にそのような素養があったとは思えない。

ウィキペディアによれば、百済本記は天皇及び太子と皇子が同時に亡くなったとし、政変で継体以下が殺害された可能性(辛亥の変説)を示唆している。

古事記に比べなるべくことを穏便に取り計らおうとする日本書紀が、なぜこのような一文を引用したのかはわからない。

あるとすれば、百済人の大量亡命とともに百済本記が持ち込まれ、そこに「をほど」に関する記載があるのを発見して、つい飛びついてしまったのかもしれない。

なお百済本記で531年に天皇が死んだことは明らかだが、それが「をほど」だったとは書かれていない。


古事記に従えば、福井の田舎の成り上がりの豪族が、5代前の天皇の血筋を引いているとか言って、現人神にまで上り詰めたわけだ。

それができたのは世が麻のごとく乱れていたからに違いない。

何がどう乱れていたのか。

少なくとも40年位前までは倭王朝があり、武を含む五王が君臨し、朝鮮半島南部をふくめ安東大将軍を名乗り、それを中国の朝廷も認めていたわけだ。

それが継体天皇以降は霧のごとく消滅している。乱れといえばこれ以上の乱れはない。

その乱れは徹底的なものであったに相違ない。文書も記録もそれを作成し使用していた人々も全くいなくなってしまったのだから。

殺しつくし焼きつくすジェノサイドが存在したと考えるほかない。まさに倭国大乱である。しかしその割には天皇の死亡記事まで記録している百済本記に、大乱の記録がないのもおかしい。もっとも原本はないのだから、記録がなかったとも言い切れないが。