むかし、大野晋さんの本を読んで、日本語とタミール語が同根だという説を知った。
彼らの顔はどう考えても日本人と共通点はない。およそ親近感を感じない民族である。
ただ、長江文明を知ってから考えが変わった。
タミールは荒唐無稽としても、チベットからシッキム、ブータン、アッサム、インドシナ北部から中国南部の山岳地帯に住む民族は長江文明の流れをくむのではないだろうか。
その帯は一旦途切れて、日本へとつながっているのではないだろうか。
上山春平のように照葉樹林帯として風土から生活習慣の共通性を説明しようとするのがオーソドックスではあろうが、文化の近似性はそれだけでは説明しきれないような気がする。
山の斜面に棚田を切り、それでもダメなら陸稲で、という稲作への執念にも似たこだわりは、一つの文明といえるような気がする。
お絵かきが下手で、うまく描けないが、こんな感じはどうだろう。

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紀元前5千年ころ

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紀元前3千年ころ

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紀元前1千年ころ

日本には樺太から南進してきた縄文人が先住しており、紀元前千年ころから長江文明の流れをくむ弥生人が入り始めた。そして紀元前500年ころには大阪と敦賀を結ぶ線くらいまで、紀元前後には海岸沿いに沼津、富山あたりまで前進した。縄文人は狩猟採集民族であるから、稲作農民との葛藤なく共存し得たが、人口密度から言えば、稲作農民の比ではなかった。一部は稲作農業を受け入れたものと思う。
朝鮮では三韓地方が長江文明の流れであり、紀元前300年ころには漢の影響を受け、その代理人である扶餘(天孫)族が馬韓の地に百済を起こした。弁韓も程なく同様の体制に入ったものと思われる。これらの地の弥生人は相当数が九州に移住した可能性がある。
やがて辰韓には新羅、弁韓の地には任那が建ち、海峡を超えて九州北部も支配した。任那はやがて本拠を九州に移し倭国を起こす。出雲は同じ天孫族でも新羅由来かもしれない。神功皇后は越前の生まれで新羅の出自ではなかったか。
天孫族は基本的にはノルマン人と同じ傭兵集団であり、弥生人を駆逐することなく、その上に君臨した。しかし弥生人の文化(銅鐸に代表される)は拒否し、破壊し天孫信仰を強制した。