この間、札幌近郊の博物館をいくつか訪れた。

江別市郷土資料館

北海道立埋蔵文化財センター

恵庭市郷土資料館

北海道博物館

道立図書館内の北方資料室もふくまれる。

もちろん展示物をサラッと見ただけの印象だが、

道央低地帯の文化は歴史的・地理的に孤立している。

というのが感想である。

北海道の縄文文化の本拠地は内浦湾一帯を含む道南だろうと思う。それは東北の縄文文化と一体となったものだった。これについては以前にも書いた。

それは紀元前2千年から1千年をピークに繁栄を極めた。

そしてその後は徐々に勢いを失い、恵山文化を最後に一旦途絶えてしまうような印象を受ける。

私はそれは日本列島を襲った寒冷化によるものだろうと考えていた。いくら「エコだ、現代に通じる生き方だ」などと言ってみても、その日暮らしの生活では気象の激変にかなうべくもない。

本州でも関東を中心に縄文人の人口が激減したという論文があった。あまり定かな記憶ではないが、浅間山の噴火+寒冷化と説明されていたように覚えている。

ところが道南の縄文式文化が衰えを見せ始めた頃、道央低地帯はそのピークを迎えるのである。

「これはなんだろう」と考えていて、ふと思いついたことがある。それは鮭の遡上である。

今でこそ、鮭漁の大半は沖合の定置網で行われるが、それは主として商品価値の問題である。

とれさえすれば良いのなら、川に上ってくる鮭の頭を殴って手づかみするのが一番手っ取り早い。

だから鮭漁を中心とする生活は海岸よりむしろ内陸部で盛んになったとしても不思議ではない。

第二に鮭は寒流系の魚であるから、むしろ気候の寒冷化が遡上の増加をもたらす可能性がある。

そうなると、寒冷化が始まってから道央の、しかも内陸部の江別や恵庭で集落が発展したと見てもよいのではないか。

これが縄文時代の末期に、他の場所が衰退に向かっているにもかかわらず、道央低地帯に文化が発展した理由である。彼らはある意味で「逃げ遅れた人々」である

にも関わらず、やがて道央低地帯文化が衰退していくのは、それをも凌ぐ寒冷化の進行であったのかもしれない。

こうして縄文人は北海道を撤退し東北から関東・北陸へと進出していくことになる。そしてその間隙を埋めるように北方系のオホーツク人(粛慎人)が進出する。

これが7世紀になると、今度は南からの大和民族に押されふたたび北を目指すことになる(北帰行)。これが擦文文化→アイヌ文化の始まりではないかというのが目下の推量である。