最近日本人のゲノム分析に関する文章に「アイヌ人こそ生粋の縄文人」みたいいな表現が目につく。
Y染色体ハプロはたしかにそれを示しているようにみえる。
しかし、ミトコンドリアDNAだけを見ていれば、到底そのような結論はでてこない。
むしろ「アイヌ人はオホーツク人である」と言うほうが適当かもしれない。
この点について学者の皆さんはニヤッとしたことしかいわない。
しかし、これを歴史の流れの中で見ていけば、次の結論しかでてこないのではないか。
すなわち
①アイヌ人は寒冷期に東北~渡島に下った縄文人、すなわちエミシが再び北上したものである。
②アイヌ人が南下した後の北海道には、北方のオホーツク人、カムチャッカ人が到来し定着した。
③エミシは沿岸部に侵食し、ついで奥地へと分け入った。先住民たるオホーツク人は駆逐されあるいは制圧され、エミシの支配下におかれた。
このような関係においてのみ、Y染色体ハプロにおける縄文系の優越、ミトコンドリアDNAにおけるオホーツク系の優越が説明できる。ともに漁労・採集を事とする生活を営む限り、弥生人(長江人)と縄文人が示したような「異業種間」の共存関係は成立し得なかった。

そう考えたとき、その流れを考古学的に証明できるかどうかが問われてくる。
すなわち
①続縄文時代をになったのは誰か。とくに前期と後期の間の変化をどう捉えるか
②擦文土器の時代を担ったのは誰か。それはアイヌ人の時代との間に文化的断絶があるのかどうか
これらをオホーツク文化の栄枯の流れと読み合わせながら解き明かす必要があるのではないか。

とりあえず、続縄文時代の変遷をメモしておく。
続縄文時代は紀元前5世紀に始まり、紀元6世紀の末まで続く。約千年の期間である。
相対年代としては前半期と後半期に分けられる。
前半 3つの文化が一定の時差をもって出現する。
①恵山文化: 道南から石狩低地帯にかけて展開
②江別太文化: 石狩低地帯文化。恵山文化の後退に伴い出現?。
③道東圏文化: ただしオホーツク文化の影響あり。
後半
江別太文化を基礎に後北文化が出現。東北~北陸地方まで拡大する。

これについての解釈は別記事を起こすこととする。