崇神王朝の後半になると、大和政権は吉備の国を制圧し、さらに出雲に進出する。
最初は貢納の要求から始まったが、ときの支配者であった出雲振根はこれを拒絶した。
この時の経緯が興味深い。
大和政権が使者を送り貢納を要求したとき、振根は九州に行っていて留守だった。そのため振根の弟が対応したのだが、彼は大和政権の圧力に屈してしまう。吉備国を征服した大和政権の力を考えれば当然の対応であったのかもしれない。
しかし九州から戻った振根はこれを聞いて烈火のごとく怒った。そしてその弟を殺してしまう。さすればと大和政権が軍を差し向け、振根を忙殺してしまう。こうして出雲の国も吉備に続いて滅亡することになる。
この「出雲国」はオオクニヌシや大物主が支配していた頃の出雲ではない。彼らから「国を譲られた」側、大御神系の人々の支配する国だった。すなわち九州王朝の属領であったわけだ。
そこに手を出したのだから、大和政権も相当の覚悟であったろうと思う。吉備の国をやっつけるとはわけがちがう。それは出雲の国そのものではなく、その背後にいる九州王朝への反逆であるからだ。
しかし九州王朝は反撃をしなかった。それどころか仲哀の軍が下関まで到達し陣を張っても動かなかった。そして仲哀を九州王朝の都たる博多まで招き入れた。
なぜだろうか。朝鮮半島での高句麗との激しい戦闘に消耗していたのであろうか。