纏向遺跡と箸墓古墳

纏向遺跡が3世紀後半に始まったことについて異論はない。

しかし箸墓古墳が纏向の歴史の初期に作られたものかどうかは、そう話はかんたんではないと思う。

つまりこういうことだ。これまで発掘された範囲ではかなり大規模な、巨大と言ってもいいくらいの遺跡である。かといってそれが都城であったことを示すようなものもない。

印象としては「飯場」なのだ。生活の臭いがない、農業との関わりが感じられない。かといって壮大・美麗な建築物を想像することもできない。

大規模土木工事に駆り出された人々が寝泊まりし、その周囲に工事に必要な物資や、食料が保管されていたという感じが強いのである。

そして3世紀中頃には放棄されてしまう。なぜなら開発すべき対象がなくなってしまったからである。

ただ、そこに都市としての景観が徐々に備わっていくのなら、それはそれとしてわかるのだが、どうもそのような積み上げが感じられない。

箸墓古墳は記紀では倭迹々日百襲姫命の墓所とされている。この姫はシャーマンで、崇神天皇の婆さん筋の人だ。

私は崇神は4世紀前半から半ばくらいの人だと思っているので、もし言い伝えのとおりだとすると、箸墓古墳は西暦300年以降のものでないと都合が悪い。

そしてその古墳は纏向近辺で最後に築かれたものでないと具合がわるいのである。

このあと近辺にめぼしい開拓適地はなくなる。最初は無から有が生み出されるのだから、人口が増えてもそれは賄える。しかし新田開発が止まった途端、人口圧は重圧となって押し寄せてくる。

どこであろうと開拓適地を探して版図を拡大することを迫られることになる。

私は以前は崇神一族は越前からやってきた雇兵集団ではないかと想像していた。

しかし欠史八代が実際にはかなり短い期間のものだったとすれば、神武の率いた武装集団がまだそのまま残っていた可能性もあるのかもしれない。

崇神は若き当主だが、その周囲を叔父や大叔父などが固めていた。彼らは出雲系の中の大物主直系を味方につけ、葛城を中立化させ、河内と山城を制圧した。そこには大和盆地に勝るとも劣らぬ河内湖や小椋の池という開拓適地があった。

ここから崇神王朝の血塗られた征服譚が始まるのであろう。それとともに纏向の開拓基地も忘れられた存在となっていったのであろう。